植民地支配への沈黙を問う(31日の日記)
押入れを整理していたら、20年前に現代人文社という出版社から出された山口正紀著「メディアが市民の敵になる」という本が出てきた。こういうものを見つけると、だいたいはいつ頃どういう経緯で買う気になったものだったか、すぐ思い当たるのだが、最近は記憶力が減退しているせいか、何も思い出すことがなく、ただ山口正紀という人は「週刊金曜日」にコラム記事を書いてる人だったということだけ、辛うじて思い出した。彼の記事は「週刊金曜日」の中でも、とりわけ鋭い世相批判が目立つ論調だったが、この本を読み進めていると、つぎのような一節に遭遇した。小泉純一郎首相(当時)が朝鮮民主主義人民共和国を訪問し、初の首脳会談の場で金正日総書記が「拉致事件」を認め、謝罪したため、日本では国内世論が騒然とした頃の一文である; 9・17日朝首脳会談から、まもなく4ヵ月になる。この間ずっと私の脳裡(のうり)を一つの問いがめぐり続けている。日本人・メディアは、なぜ植民地支配の問題に沈黙を続けるのか? その答えのいくつかを、2002年末、都内で開かれた「植民地支配の責任を問う!『9・17』を語り在日朝鮮人の再生を目指して-12・14集会」で、さまざまな発言から得た。「平壌(ぴょんやん)宣言」以降、在日の立場から発言・行動している「2003年在日宣言委員会」が主催した集会だ。 最初の発言者、作家の金石範(キムソクボン)さんは30年前、強制連行による奴隷鉱山労働を描いた『糞と自由と』(作品集『鴉の死』所収)で、私に植民地支配とは何かを教えてくれた人だ。敬愛する老作家は「過去の歴史をないものにしようとする動き」を指弾した。 「国交正常化は拉致(らち)問題のためではない。植民地支配が終わった時点で取り組むべきものだ。日本人は戦争も、被害者の立場でしか考えてこなかった。いつも、ひどい目にあったと言うばかりで、加害の自覚を持っていない。マスコミのやり方は歴史を全部カットするものだ。過去のない日本なんてない。歴史健忘症でさえなく、意識的に忘れようとする歴史抹殺(まっさつ)だ。日本人は、いつのまに正義のピュアな存在になったのか」 社会学者の鄭暎惠(チョンヨンヘ)さん(大妻女子大学)は、在日朝鮮人へのいやがらせの背景にふれ、こう語った。 「日本政府は在日に対して何をしてきたのか。問題は植民地支配の清算だけではすまない。私たちは今、破綻(はたん)する日本社会のしわ寄せを受け、そのスケープゴートにされている。関東大震災でも朝鮮人はスケープゴー卜にされた。朝鮮人を殺さなければ自分が殺されると思った日本人がいた。私たちは、国なき民としての生き方を考えなければならない。9・17以降、日本国籍を取るうとする人が増えているという。それでどんな忠誠を誓わされるのか。在日同化政策は、植民地支配を告発する人間をなくしてしまおうとしている」 作家の徐京植(ソキョンシク)さんは、平壌宣言で小泉首相が表明した「植民地支配への反省」に疑問を投げかけた。 「たとえば3・1独立運動(1919年)の後、1万人の朝鮮人にムチ打ち刑が科せられた。我々は、その痛みとともに生きている。また、たとえば治安維持法によって、植民地支配に抵抗した数千人の朝鮮人が弾圧された。小泉首相は、本当にこれらを反省しているのか。いや、それ以前に、日本人はこうしか事実を知っているのか。知ってもいないことを反省できるのか。小泉首相の反省は空文句にすぎない。我々在日は、日本がやったことを問い続ける生き証人の役割を果たさねばならない」 戦争を被害としてしか語らない。メディアは歴史を抹殺する。閉塞(へいそく)し、破綻する社会のスケープゴートを作る。植民地支配の反省すべき事実すら知らない。それが、在日の人々の目に映った私たち日本人の姿だ。 フロア発言にも胸を衝(つ)かれた。 「私は、平壌宣言に在日の存在はないと感じた。私らはいったい何なのか。自分の人生、親の人生、その苦痛は何だったのか。言い分はいっぱいある。我々在日はこうである、という主張を堂々と出していこう」(集会を主催した男性メンバー) 「日本は朝鮮の南北分断に加担し、分断から利益を得た。自分たちが有罪であると認識することなく、拉致事件の背景も掘り下げず、北には血の通った人間かいないかのような報道ばかり繰り返すのは許されない」(名古屋市から参加した若い男性) 「私たち在日は、今も日本の植民地支配から解放されていない。日本に拉致されて来たまま。北も日本も似たようなものだ。私は日本人拉致被害者に、同じ立場の者として手紙を書いた。権力の道具にされず、北との自由往来を両国政府に求めてはどうかと」(川崎市の高齢の男性) 「拉致、拉致、拉致。毎日の報道に夜中、独り涙している。こんな日本に、子どもや孫を住まわせなくてはならない。だから、近くにいる日本人一人一人に、本気で私自身のこと、在日のことを話していこうと思っている」(町田市の高齢の女性) 「見えない存在」にされてきた在日朝鮮人を完全に抹殺する報道テロ。「消えたチマ・チョゴリ」が象徴だ。 その在日の人々が「植民地支配の清算は、私たちがやるしかない。南北両政府にもメッセージを伝えて行こう」(主催者)と、動き始めた。 それでもなお、日本人、マスメディアは、過去に沈黙を続けるか。<2003年1月10日>山口正紀著「メディアが市民の敵になる」(現代人文社刊) 165ページ「植民地支配への沈黙を問う」から引用 私も、拉致問題に関する報道に接するたびに、加害・被害の立場を逆にしたもっと大規模な事件が戦前にあったことには一切触れずに、日本人が被害にあった事件だけを針小棒大に取り上げて大騒ぎするのは如何なものかと、いつも感じますが、日本のメディアは20年前も現在も、戦前のことには沈黙を決め込み、現代のことだけを書き立ててこと足れりとしているのは、残念なことだと思います。政治や報道の分野がそのような状況であるなら、あとは映画とか文学とか、展示会に慰安婦像を飾るとか、そういう分野から「歴史認識」を構築していくという「道」があると思います。