僕が僕らしくあるために

助手席で、君が急に呟いた。
「子供の頃、この辺りに住んでいたんだ。」

そういえば、Ｔ市に住んでいたという話は
何度か聞いたことがある。

「この辺りだったの？」
運転をしながら、僕は尋ねた。

「うん。ちょうどこの辺り。」
タッチパネル式じゃないから、画面を触っても
スクロールしないカーナビの画面を、一生懸命に
指し示す君。
今走っている幹線道路から、少し住宅街に入ったあたり。

「行ってみようか」
ふと、僕は言った。

今の住いから、驚くほど離れているわけではないから、
また来る機会はあるのかも知れない。
でも、そんな「また」とか「今度」を待っていたら
いつ来れるのだからわからない。

「えぇ。いいよぉ。」
君は遠慮がちに言う。

いつもの僕なら「そう？」と言って
そのまま車を走らせたのかも知れない。
でも、今の君との関係を考えると
「また」や「今度」が必ず来る保証など
どこにもない。

そんな切羽詰った思いがあったからか、
幹線道路から細い生活道路へハンドルを切った。
君が指し示した方向へ。

生活道路を抜け、今は旧道となった道路に出ると
「ここ知ってる！」と君は声を上げた。


「お父さんの車で走ったんだ。買い物やお出かけの帰りに
　この方向で走った。あ！そこ右。」

君は再び声を上げ、旧道から湾岸地帯へと向かう
工業道路への右折を求めた。

しばらくその道を走ると、住宅街へと続く
１本の道があった。

「ここかなぁ？」
自信無さげに呟く君。

一度は通り越してしまったものの、
結果的には君が呟いた道が正解。
住宅街の中へと車を進める。

「ここ、学校の帰りに遠回りして
　歩いたことがあるよ！
　そこに好きな男の子が住んでいたんだ」

「初恋の人？」
微かな嫉妬を交えながら尋ねる僕に
「わかんない。名前だって憶えてないんだもん。」

もう７年も一緒に居るのに、未だに君のことはわからない。
好きだった人の名前って、忘れるものなのかな？
好きという気持ちが小さかったのか、
それとも君にとって、恋愛ってその程度のものなのだろうか。

ここ数カ月、僕の胸の中で繰り返される問いかけと
似たような感触が、ふと頭を擡げてくる。

「この道、こんなに細かったんだ。」
何事もなかったかのように、君は景色を見ている。
そう、何事もなかったかのように。。。

やがて道は突き当りに近づく。
「そこの突き当りのマンション
　あそこに住んでたんだ。
　確か駐車場があったはず」

「あ！この公園覚えてる！
　ここで遊んだ。」
今は手入れがされなくなった
５ｍ四方ほどの小さな公園。

「少し歩いてもいいかな？」
君は時折激しく降る雨の中、
車の助手席を降りて、細い道を歩いていく。

周りの景色を確認しながら歩いていく君。
子供の頃の君は、どんな子供だったのだろうか。
およそ四半世紀前、君はきっとランドセルを背負って
この道を歩いていたんだろう。

車から降りて歩いていく君の近くを
半透明の小さな女の子が歩いているような
気がする。

ここで暮らしていた君。
引っ越した後、今の住いに至るまでに
いろいろなことがあったのだと思う。
僕が知っていること。知らないこと。
知りたくないこと。知らされていないこと。

でも、そんな全てが今の君を作っているのだと思う。
今の、僕が大好きな君を。