カテゴリ:読書のココロ(エッセイ・その他)
昨日の日記にも書きましたが、これ、マジ面白いです! 私の中では、 今年の読書ランキング・エッセイ部門暫定第一位です。 講演会の筆記なども多いので決して読みやすくはないですが 何と言っても着眼点がいい 文学とスピリチュアルを繋ぐ考察や作品は、 本書の中でも紹介されているシュタイナーやスエーデンボルグをはじめとして 各国にたくさん、それこそ星の数ほどあると思うし、 禅とスピリチュアルを結ぶ考察も、時折見受けられます。 でもこの3つをひとまとめにしたものは、なかなかないんじゃなかろうか? 私は読書をしながら、 興味を惹かれた箇所に付箋を貼付けていくのが常なのだけれど いつも準備している10枚の付箋が途中で足りなくなることは稀です(笑) おおまかにいって 前半は、禅に親しむ側からみた 超能力(スピリチュアル世界)や文学について、 後半は、作家という立場から見た超能力や禅について考察されています。 著者は僧ではないので、 「禅とはこういうものだ」などと断言はしていませんが (僧であってもできるものではないと思いますが) 「素人」なだけに素人には言葉がわかりやすいのです。 そのわかりやすさで 共に常軌を逸した力である 超能力(物質移動や降霊、念写)と悟りについてのべています。 * * * 「悟り」といったって、そんな超越的なことではないということです。 むしろ超越的だと、すぐ忘れたり、身を離れたりする。 本当の悟りにはなりにくいということです。 それでは超能力を得るとどういう危険があるかと言えば、 それによって「我」がつのる、天狗になる。 自分は人の出来ないことが出来るのだと言う、 そういう気持ちがあったらこれはダメです。 それを目標にみんな一生懸命超能力を勉強するのでしょうけれども。 人より違ったものになりたい、それは間違いです。 人と比較してはいけない。 自分が見えなくなる。「魔境」に入りやすい。 さっきも言いましたように、超能力と人格は別物です。 僕の知っている例で言えば、すごい超能力者が今でも英国にはいます。 (霊を降ろして物質化することが書かれていますが 中略) それだから彼が悟りを開いているかというと、そうも思えない。 じゃ、超能力を持っていて悪いかというと、別に悪いことではない。 それを悪用しなければ良いんです。 どういうところがいいのかというと、 それによって人間は霊的な存在であることが分かるということは いいことだと思います。 霊的と言いましても、霊界があるとか何とかいうことではない。 (中略) 霊性を持った存在であると感ずることは大変結構なことだろうと思います。 「霊性」といったって「心」といったって、それは同じものです。 「霊性」というのは、心の更に奥の方にあるものだ、というふうに 便宜的にお考えいただければいいので、 日常の私たちの意識の奥の方に「霊性」というものは存在するのだと ━「仏性」といってもいいのですけれども━ お考え下さればいいんじゃないかなと思います。 * * * とても分かりやすいし 宗教一辺倒とか、心霊オンリーとかではないから 退屈せず、おもしろい。 日本人はまだまだ宗教や心霊に対して嫌悪感を持つ人や懐疑的な人が多いので 話し手がその両方に詳しく、しかも中立的な立場なのもよい。 (著者は心霊協会の会員でもある) 一般に、僧の法話は、どんなに中立的に語ろうとしても、どうしても偏る。 自身の宗教のフィルターを通してしか物事を語れない。 良い悪いではなく、「宗教を信じる」とは、そういうことだろう。 スピリチュアルは流行るのに、宗教は敬遠される所以だと思う。 法話のDVDや著作が売れている人気のある僧侶の話でも 大抵、世間話や体験談から一気に「仏様の言葉」やら「禅語」やら 専門的な宗教話に飛んでしまって (法話というのはそういうものだといわれればそれまでだけれど) その過程の肝心な部分は省かれてしまう。 質疑応答などでその部分を問うと 「私は死んでいないからわかりません」だの 「そんなことは考えずに今を生きよ」だのとはぐらさかされる。 答えている方ははぐらかしているつもりはなく、真実を答えている。 でも訊いている方としては、取りつく島がなくて 何だか取り残されたような、自分の理解力が足りないような (言い換えれば「修行が足りない」ような)気がしてしまうのだ。 決してそんなことはないのに。 もうひとつ、後半の軸になっているのは 文学と心霊世界の相似。 小説を書くような人間には、 ある程度の霊力(言い換えれば超能力)があるという。 * * * 小説を書く行為の基本になっているのは想像力ですから、 想像力というのは本質的にそういった心霊世界に含まれる問題だと思うんですね。 心霊の世界というものは、要するに想念の世界なんです。 物を考えたり、想う世界。 で、想念というのは一種の電磁波的な動きなんですね。 頭から一種の波長が出ているということはよく知られているわけですけれども。 それはつまり思考の世界、想像力の世界と全く共通するものであって、 死後の世界にしろクレアヴォイヤンスでみる未来や過去の世界にしろ、 みんな想念の世界ですから、 その世界は基本的には文学の想像力の世界と同じなんですよ。 文学の場合は、文字にして言葉に置き換えて 紙の上に再現しないといけないわけなんですが、 その基本的な働きは、心霊の世界に共通すると思うんですね。 (中略) とはいえ、たとえば、作中人物がひとりで勝手に動き出すというような場合、 作者の想念の中でも、その人物は生きてくる訳ですね。 それは言ってみれば、その想念自体が ━これはあくまでたとえですけれども━ ひとつの霊体をとって、 その霊体がひとりでに動き出すと考えられないことはない(笑) 想念の世界というのは、また自律の世界でもあって、 自分で動くだけの力がある。 物を書く人間が本当にそういうことを思い詰めると、 自分の力ではコントロールできなくなって 考えの方がどんどん動いていくというようなこともありますし… ですから基本的には僕は同じ世界だと思います。 * * * 想念が電磁波で物質を動かすことが出来る、というのは 両手足の不自由な人が脳波で車いすが動かせる時代になった今、 化学的にも証明できることで 物質を動かせるなら、その物質の存在するこの世界も動かせる、と 私は思う。 また、海外のスピリチュアルの大会で行われた 想像の中の草原で花を摘み、それを贈り合う、という体験を通しても 想念の世界に触れている。 * * * その後、ぼくは時々、もらったバラとデイジーはどうなっただろうと思うことがある。 心の中にその影と重みを感じるのである。 スピリチュアリズムでは、想念が世界を作るのでありその逆ではないと考えている。 想念と物質が本質的にどう関わっているかを理解するのは難しいが、 我々が常時想念の世界に住んでいることは確かである。 そして現実的なものだということは、前から僕も考えていたことで、 今度のようにはっきりした形で表現されたことはおもしろかった。 禅の「内観の法」やヨーガの瞑想によって肉体を操る方法とも共通している。 文学やその他の芸術も根本的には想念(想像力)の働きであるから、 それが生み出すバラやデイジーにも、現実を動かす働きがあるはずだと 僕は信じている。 * * * この他にも 呼吸法と手かざし療法、 文学、禅、霊の世界でのヴィジョンとの一体化、 日本独自の狐狸の霊、 三島由紀夫の霊との交信などなど ほんとうに興味深い&シンクロしまくりな内容盛りだくさんで 思わず買ってしまおうかと思ったほどだった。 期限ギリギリまで借りておいて もう一回読んでみようっと♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.07.01 22:37:50
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