ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー
ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」 第二講(本講・解説) 1920年 3月22日 ドルナハ第2講解説・第7回 病気の諸症状の間には相互作用が生じています。痩せるという症状は、諸々の症状の間の相互作用のなかのひとつなのだといえます。ですから、そうした症状をひとつひとつをばらばらに見るのではなく、一連の連関のなかでそれを見ることが大切なのです。結核の場合にも、防御反応のひとつとして生体組織自体にそうした反応を引き起こす力がない場合には、それを助けて反応を起こすようにすることは、合理的なことなのです。「健全に病んでいる人間」の生体組織の成長と生成全体と関係しているあらゆる出来事を注意深く研究すれば、病気の諸症状の間にも相互作用が生じていると言えるところまで導かれることがおわかりになると思います。痩せることはまずもってひとつの症状です。記:健全に病んでいる人間とは、自分の状態を受け入れつつも、精神的な問題を楽しむ余裕を持つ人のことを指します。このような人は、自分自身との対話を楽しみながら、より健康的な方法で自分の感情や悩みと向き合います。 しかしながら、結核の素質との関係において、つまりいくらか活動し始めている結核との関係において、この痩せるということは、諸々の症状の間の相互作用の一部なのです。すなわち、ひとつの組織体、諸々の症状の観念上の組織体とでも言うべきものが成立しているのです。ひとつの症状はある意味でほかの症状に属しているのです。従って、生体組織の他の条件によって何か反応のようなものが起こるとき、結核の例にてとどまりますが、生体組織自体にこの反応を引き起こす力がない場合は、これを助けて反応を起こしてやること、まさにひとつの病気に別の病気が続くようにしてやることは、全く理にかなったことになるのです。古代の医師たちは、霊視力を持ってそうした諸連関を見ていたがゆえに、別の症状との正しい関係をもたらすために、ある症状をも引き起こすことができなければならないことを知っていました。病気を癒すことができると同時に病気を引き起こすこともできなければならないわけです。古代の医師たちはこのことを、医師のためのいわば意味深い教育法則として語ってきました。医師であることによって危険なのは、単に病気を取り除くことができねばならないというだけではなく、病気を引き起こすこともできなければならないということだと古代の医師たちは語りました。つまり、医師は病気を癒すことができるのと全く同じ程度に、病気を引き起こすことができるというわけです。隔世遺伝的な霊視力によってこういう関連についてもっと多くのことを知っていた古代人たちは、医師のなかに、彼が悪意を持てば、人々を健康にするばかりでなく、病気にすることもできる人物を同時に見ていたのです。けれどもこのことは、他の発病状態との正しい関係をもたらすために、何らかの発病状態を引き起こさなければならない必然性と関連しています。とはいえ、これらは病気の状態であることは確かです。咳、喉の痛み、胸の痛み、痩せる徴候、疲労の徴候、盗汗、これらはすべて、病気の症状には違いないのですから。これらの症状は引き起こされねばならないとはいえ、やはり病気の症状であることは間違いないのです。防御反応として起こしたことであっても、一度そういう症状を起こした場合には、適当な時期が訪れたときに、それを治療してその症状をなくさなければなりません。結核の場合、防御反応として咳のや喉の痛みが引き起こされた場合には、通常、下部においては便秘状態になっているのですが、それを改善するために、下痢の状態へと導かねばならないのです。このことから、半分治療した時すなわちこれらの症状を引き起こした時点で、病人をその運命に委ねてしまうことはできず、この時こそ治療プロセスの第二の部分が現れてこなければならないということがおのずと容易にご理解いただけると思います。その時は、単にこれらの反応、つまり病気を防ぐために引き起こしたものが存在するように配慮されねばならないだけではなく、今度はこの反応を癒し、生体組織全体を再び正しい道に導くものが生じてこなければならないのです。したがって例えば、結核の素質に対しての自然なあるいは場合によっては人為的に引き起こされた防御として、咳の刺激が引き起こされたとき、また喉の痛みが起こったりあるいは引き起こされたときには、その際常にいくぶん詰まった状態つまり便秘状態を呈しているであろう消化プロセスが秩序正しいものになるように配慮されねばなりません。何らかの方法で気づかれることでしょうが、ひとつの防御プロセス、一種の下痢に移行させられねばならないのです。常に、咳の徴候や喉の痛みその他に続いてこのような下痢が起こることが必要なのです。まさにこのことが、上部に現れていることをそれ自体として観察してはならず、たとえ物質的な媒介物はなく、対応関係があるだけだとしても、上部に現れていることの治療を、下部における経過を通じて探究せねばならないことが多々あるということを示唆しているのです。このことは何にもまして考慮されてしかるべきなのです。防御反応の症状は、適当な時期に、それを克服しなければなりません。新陳代謝が優勢であって、それが上部によって制御されないときには疲労の徴候が現れますが、その場合には、消化活動を活発にさせる必要があります。痩せるという症状に対しては、脂肪を形成させるような食餌療法が必要ですし、寝汗という症状も、汗を出させるための活動が必要になるのです。疲労の徴候、私はこれを単に主観的な疲労徴候と呼ばずに、本来常に新陳代謝の優勢に基づいている、全く組織的に引き起こされた疲労徴候と呼びたいのですが、新陳代謝が上部によって制御されない時に強く現れるような疲労徴候は、結核の場合これが実際に引き起こされねばならないので、その後必要な時点で克服されねばなりません。つまり、それに応じた食餌療法によって、こうした食餌療法の詳細についてはさらにお話すべきことがあるでしょうが、消化が優勢になるように、すなわちその人の通常の状態よりも消化活動が活発になるように、いわばもっと簡単に消費されてしまうものが、消化プロセスを通じて消費されるように配慮することで、こういう疲労徴候は克服されねばならないのです。痩せることも、今度は一種の脂肪形成,つまり器官や器官組織のなかへの蓄積を起こさせるような食餌療法によって、後から克服すべきでしょう。盗汗もまず最初に引き起こされた後に、きわめて知的な活動、つまり努めて熟考するなどして実際に汗を出すような活動を指示することを試みることによって、後から克服されねばなりません。そうして再び健康な発汗が促されるのです。病気の諸関連を見ていくならば、病状を強めたり弱めたりすることで病気の経過を必要な方向に導き、やがて生体組織のプロセス全体を健康にしていくことができるようになります。まず最初に心臓の活動を正しく把握することにより、人間において上部と下部がいかに対応しているかを理解するなら、さらに、神経衰弱やヒステリーのような、機能的なもの、エーテル的なもののなかに病気の最初の発生、いわばかすかな兆しが見られることを理解するなら、器官的なもの、物質的なものにそのとき刻印されているものを理解することへも進んで行けるのだということがおわかりになると思います。こうして相関しあっている病気の像の外観を研究することにより、最初に引き起こすものも含めて、いわば病気の経過を、場合によって病状を強めたり弱めたりさえしてある方向に導き、時期が到来すれば、プロセス全体を再び健康にすることができるでしょう。参照画像:cat-Tuberculosis 第2講解説・第7回 了哲学・思想ランキング