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カテゴリ:読書
那覇市立図書館ががサイバー攻撃でを受けてまともに利用できなくなっていた期間、しばし読書が途絶えていた。でも、コロナで休館したりして久しく利用していなかった沖縄県立図書館の方にしかない本を読む機会でもある。ということで、以前からチェックしていたものをこれから借りようと。まずは、今更ながらコロナ禍で読むべき本として挙げられていた一冊を。ちょっと時間かけて読了。
ネヴィル・シュート著「渚にて」(’58 文芸春秋新社刊)、核戦争が起こった後の、かろうじて生き延びた人々の行動を描く物語。ハリウッド映画でお馴染みの題材だが、映画の方は未見だ。小松左京の「復活の日」にも似た内容だが、こちらは、むしろ静かに滅びゆく人類の様を淡々と描く感じだ。図書館所蔵本は初版かどうかはわからないけれど、かなり年季の入った本でバッチいし臭う。活字も小さめの280頁。 気になったのは、主人公であるドワイト・ライオネル・タワーズ中佐の呼称が、時にドワイト、時に艦長、時にタワーズ中佐等と変わること。当初、別の人物かと思えたけど、勿論、一人。これは原著がそうなっているのかもしれないけれど、統一してくれないとややこしいよね、至極基本の話だと思うけど。 とまれ、このタワーズは、既婚者のようなのだけど、妻子は生死が不明らしい。それを知ってか知らぬか、モイラ・デヴィッドソンはタワーズとの逢瀬を繰り返す。二人に性的な関係があるわけではないのだけど、モイラはやけなのかどうか、しょっちゅうブランデーを煽っていてアル中状態だ。この時代、女の方が積極的で、これだけ飲んでいるのもなかなかだと思うけれど、当時のハリウッド映画でも時々描かれていたけど、立場を捨てれば、案外、女でも自由にいられた時代だったのかも知れない。 お話は、この二人と、タワーズの部下にあたるオーストラリア海軍少佐ピーター・ホームズと、その家族との交流などを描いているけど、人間ドラマ的に特段の起伏があるわけではない。ただ、北半球を壊滅させた核の放射能は、次第に南半球にも迫ってきているということで、登場人物は、一様に、いずれは自分達にも終わりの時が近づいていることを意識している。ある種、絶望的な物語なのだ。 彼らが特に何か行動を起こすわけではなく、まさに淡々と日常を送っていく。タワーズのみは、自らが指揮を執っていた潜水艦と運命を共にしようとする。そんな具合で、「復活の日」のようなサヴァイバルの葛藤があるわけではない。終始クールなジョン・オズボーン博士のように、起こる物事に冷静にあたっていくだけだ。映画版のタワーズ=グレゴリー・ペック、モイラ=エヴァ・ガードナー、オズボーン=フレッド・アステア(これは意外なキャスティング)らを思い浮かべながら読んでいた。 最後は、皆が用意されていた赤い小箱を開け、その中の薬を飲んで命を絶っていく。この非情さはなかなかだとは思ったけど、核の放射能による病状、症状に対する決定的な無理解、誤解に基づいた結末なのが痛い。時代だから仕方がないのか、或いは、アメリカ人は、今でも自分達が他国に落とした爆弾の“効果”について無理解なままなのかも知れない。 訳者の木下秀夫という人のあとがきを読んで驚いた。この小説は、当初、シノプシスだけ文春に掲載されたそうだけど、この本は、それを”ほぼ完全なかたちで・・・伝えることができた”とある。“ほぼ”である。実は、割愛された部分があるようで、主筋から離れた描写の部分がカットされているらしい。おそらく、その後に創元社等から出版されたものは、ほぼではない”完全版”なのだろうけど、いやあ、県立図書館、そっちの方を入庫していて欲しかったなあ。まあ、後は映画で観ればいいかねえ・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年02月22日 23時12分58秒
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