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2011年02月14日
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昭和20年(1945年)11月28日、戦前、戦中に、身の危険を冒して、陸軍に対し、粛軍演説、反戦演説を行なった斎藤隆夫衆議院議員(2010年7月21日のブログ参照)が、帝国議会衆議院本会議の演壇に立ちました。

そして、最後の陸軍大臣・下村 定(しもむら さだむ) に、日本で軍国主義が発達した理由について、見解をただしました。


          ブログ斎藤隆夫と下村定(出典 Wikipedia).jpg
               斎藤隆夫(左)と下村定(右)(出典 Wikipedia)

これに対して、幣原内閣の陸軍大臣・下村定は、以下のように答弁しました。

いわゆる軍国主義の発生につきましては、陸軍と致しましては、陸軍内の者が軍人としての正しきものの考え方を誤ったこと、とくに指導の地位にあります者がやり方が悪かったことと、これが根本であると信じます。

このことが内外のいろいろな情勢と、複雑な因果関係を生じまして、ある者は軍の力を背景とし、ある者は勢いに乗じまして、いわゆる独善的な、横暴な措置をとった者があると信じます。ことに許すべからざることは、軍の不当なる政治干渉であります。

かようなことが重大な原因となりまして、今回のごとき悲痛な状態を、国家にもたらしましたことは、何とも申し訳がありませぬ。私は陸軍の最後にあたりまして、議会を通じてこの点につき、全国民諸君に衷心からお詫びを申し上げます。

陸軍は解体を致します。 過去の罪責に対しまして、私共は今後、事実をもってお詫び申し上げること、事実をもって罪をつぐなうことは出来ませぬ。

まことに残念でありますが、どうか従来からの国民各位のご同情に訴えまして、この陸軍の過去における罪悪のために、ただいま齋藤君の御質問にもありましたように、純忠なる軍人の功績を抹消し去らないこと、ことに幾多戦没の英霊にたいして、深きご同情を賜らんことをこの際切にお願いいたします


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斎藤隆夫は、戦前の粛軍演説、戦中の反戦演説、そしてこの、敗戦後の陸軍に対して反省を求める演説と、終始一貫、軍をたしなめ続けました。国民の代表たる衆議院議員として、命を懸けての論説の展開でした。

その後、斎藤隆夫は、昭和21年(1946年)に第一次吉田内閣の国務大臣として入閣し、行政調査部総裁となります。次の片山内閣でも、行政調査部総裁を続けました。衆議院議員当選13回。昭和24年死去、享年80歳でした.

斎藤隆夫の出身地・兵庫県豊岡市出石町には、斎藤隆夫の威徳をしのぶ “静思堂” が建てられています。

下村 定は、高知県出身。陸軍士官学校で東久邇宮稔彦王と同期生。東久邇内閣と幣原内閣で陸軍大臣を務めました。その後、昭和34年(1959年)6月に参議院全国区から立候補して当選、6年間参議院議員を務め、昭和43年(1968年)3月、交通事故で死去。享年80歳でした。

  





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最終更新日  2011年02月16日 12時06分52秒
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