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一語楽天・美は乱調の蟻

2020.12.18
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10月7日に作曲家・筒美京平さんが亡くなった。京平さんとは長い付き合いで(もちろんリスナーとしての一方通行の付き合い)、はじまりはビレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」(1967年)、オックスの「ガール・フレンド」や「スワンの涙」(1968年)などのグループサウンズのものだった。日本の歌謡曲に60、70年代の洋楽を取り入れた京平さんのメロディは、折衷文化で育った団塊の世代の感覚に合っていたと思う。驚くことに、京平さんはその後も進化を続け、2019年までおよそ3,000曲を書き、作曲家としてのシングル総売り上げ枚数は日本歴代1位の7,560万枚を記録している(ウィキペディアに拠る)。

日本滞在中にいくつか観た京平さんのドキュメンタリーによると、京平さんはレコードが売れるような曲を書くことが自分の使命だと考えていたという。オリジナリティとか美的感動といった芸術家的嗜好よりも大衆性を重視し、そこに自分の香辛料を振り掛けるという感じだったのだろうと想像する。

京平さんの曲の中には海の向こうのヒット曲を髣髴とさせるものがある。意図的に海外ヒット曲のイメージを再現しようとしたのだろう。何曲か気付いたものを挙げる。
∙ 弘田三枝子の「渚のうわさ」(1967年)、おそらくミーナの「砂に消えた涙」(1964年)のイメージのなぞりだろう。もっともこの曲は弘田三枝子自身が1964年にカバーしている。
∙ ジャガーズ「マドモアゼル・ブルース」(1968年)、意図的にビートルズの「Things We Said Today」(1964年)からギターのイントロと最初の8小節の旋律を借りてきている。サビの部分は歌謡曲にして日本人向けにしているが。
∙ 南沙織「17歳」(1971年)、京平さんのところに連れてこられた南沙織が、リン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」(リンのバージョンは1970年)を歌ったことから、そのイメージで「17歳」が書かれたそうだ(例えばここで語られている)。出だしの「誰もいない海」という部分はローズ・ガーデンそのものである。

僕には40年前から<京平>友達がいる。初めてアメリカに渡った時、中西部の田舎町で世話になった10歳ほど年下の日本人男性、その彼が僕など問題にならない京平ファンで、10枚(くらい)組のCDセットやインタビューを収録したDVDを持っている。今回、京平さんの死を悼んでスカイプで長時間話をした。彼にとっての京平ベスト5は、いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」、岩崎宏美「未来」、太田裕美「九月の雨」、「恋のダウンタウン」など平山三紀のいくつかの曲、堺正章「さらば恋人」だそうだ。

僕は、というと、60年代後半のグループサウンズ時代に、筒美京平という作曲家は非常に巧妙だな、と思ったくらいで、80年代以降はより歌謡曲臭さの薄いJpopの方に鞍替えしたので、京平さんの曲をそれほど知っているわけではない。限られた範囲でしかも歌謡曲臭の少ない、僕なりのベスト5を挙げてみよう。

まず番外、僕にとっての京平初体験ということで(ま、これは歌謡曲寄りだけど初体験に理屈はなしです)、ビレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」を入れよう。編曲は、珍しく京平さん自身ではなく、森岡賢一郎が担当している。実を言うと、ビレッジ・シンガーズが翌年発売した「亜麻色の髪の乙女」の方が、当時は好きだった。「亜麻色の髪」はすぎやま・こういちの作曲で、すぎやま氏は当時フジテレビの音楽番組のディレクターをやりながらグループサウンズの曲を書いていた。「バラ色の雲」のサビで「はじめて見つけた恋の喜び」に続く「キミはーやさしく」の部分、AmのキーでいうとB7を使っているのが当時は新鮮に聞こえた(原曲はFm)。

この頃の曲は基本的に歌謡曲チックだった。たとえば、ブルー・コメッツに提供した「さよならのあとで」(1968年)なんかは、ロスプリモスとかロマンチカが歌ってもおかしくない。いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」(1968年)もこの延長線上の歌謡曲で、京平さんの曲の中でも大売れした曲だが、僕としてはベスト5には入れない。

第5位、やはりこの曲は入れないわけにはいかないでしょう、尾崎紀世彦「また逢う日まで」(1971年)。あの印象的なイントロ、管でパッパンパパンパパンードンを二回、そしてCのキーでソーミードーラーソと降りてくる、これは斬新だったと思う。結構知られている話をひとつ。この曲はもとはあるCMの為に書かれたが、それがボツになり、それを残念に思ったプロデューサー・村上司氏(この曲を管理していた音楽出版社・日音所属)が働きかけて、ズーニーヴ―の「ひとりの悲しみ」として1970年に発表された。ズーニーヴ―は1969年に村井邦彦作曲の「白い珊瑚礁」をヒットさせたわりと実力のあるグループだったが、なぜか「ひとりの悲しみ」は不発に終わった。この曲はヒットするはずだと信じていた村上氏はそれでも諦めず、自身がプロデュースを手掛けていた尾崎紀世彦に歌わせたいと考え、「ひとりの悲しみ」の詞を書いた阿久悠に書き直しを依頼、出来上がったのが「また逢う日まで」だった。( このエピソードのネタ元

話があちこちに逸れて長くなったので、4位から上は次回にしよう。実を言うと4位から上はまだ決めていないので、5位に「また逢う日まで」を入れてしまった結果、曲が足りなくなるんじゃないかと心配だ。






最終更新日  2020.12.18 06:09:10
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