スポーツにあまり興味がない。
行うスポーツとして、子供の頃は野球が一般的だったが、私は草野球をやった覚えがあまりない。私の生まれた東京・池袋に野原は沢山あったが、野球よりチャンバラごっこや追いかけっこ、缶蹴りなどをして遊んでいた。
二手に分かれてチームをつくるほど人数がいなかったというわけでもない。あの頃、子供は沢山いた。小学校でソフトボールの授業があり、当然、私は打つのも投げるのも苦手であった。野球グラブは建前として(笑)1つ持っていた記憶があるが、バットは持っていなかった。そういえば親父とキャッチボールをした覚えもない。
スキーも好きではない。あんな寒いところにわざわざ行って坂を下るなんて馬鹿馬鹿しいと思ってしまう。
スケートはアイスもローラーも子供の頃近くにリンクがあったので、ちょくちょく滑りに行った。マイ・シューズも持っていたが、熱中するというほどではなかった。
水泳は好きであり、得意だが、もっぱら遊泳であり、競泳には興味がなかった。
陸上競技は嫌いで、器械体操が好きだった。選手だったこともある。
総じて球技は得意ではない。ビリヤードは好きだが(^^;)
見るスポーツとしては、野球、相撲が一般的だった。サッカーやラグビー、ましてやテニスやゴルフなど、関係者以外ほとんどの人が興味を持たなかった時代である。
東京オリンピックが開催されて以来、日本人のスポーツへの関心の幅が広まったように思う。
だからといってはなんだが、
実はスポーツ選手をそれほど尊敬していない。
大記録を樹立したと聞くと、すごいなぁとは思うが、それがどうしたという気持ちが常にある。関係ない世界の話なのである。
松坂投手が移籍料60億円? って、バカじゃないの? どういう計算してるの? アメリカ人って数字に弱いの?
中田が司令塔だって? 彼って勝手に指図しているだけじゃないの? だれも言うこと聞いてないじゃない。
テレビを見ていても、どこか批判的なのである。真から興奮していないのである。
人間を単純に運動体質と思索体質、あるいは運動体質と芸術体質とに分類できるとすれば、私はあくまでも思索体質なのであり、芸術体質なのである。
つまり知的なのである。
アメリカのユダヤ系作家、今や巨匠の位置にいるフィリップ・ロスの初期の作品に「さようなら、コロンバス」という中篇がある。青春の愛と別れを描いた名品である。
その中で主人公の恋人の兄・ロンが、スポーツバカとして描かれている。大学時代にフットボール選手として活躍したロンは、結婚の前夜、全卒業生に贈られたレコードを……彼の輝かしき日々の録音をじっと聴いている。
ロンの最後の試合。「……ビッグ・ロンには最後のゲームであります。しかし、オハイオ・ファンの念頭から、彼の名は、なかなかに消え去らぬでありましょう……」
ビッグ・ロンは、自分の名前が呼び上げられるのを、ベッドの上で緊張して聞き入っている。そしてレコードは卒業式となり、「さようなら、オハイオ州立大、さようなら、コロンバス……」とフェードアウトしていく。
タイトルの「さようなら、コロンバス」はこのシーンからきている。
ロンは実社会ではどうやらあまり役に立ちそうもない人物である。結婚を控えて、いよいよ大人の社会の仲間入りする段になっても、過去の栄光のレコードにすがっているような人間である。主人公(図書館に勤めている)から見れば、ロンはおよそ圏外の人間なのである。
※注:(佐伯彰一・訳 集英社文庫 絶版)ちなみにこの作品は1969年に映画化され、「ある愛の詩」(1970年)のアリ・マッグローが主演し、ゴールデン・グローブ・有望若手女優賞を得ている。
ついでにもう一つあげよう。やっかいだなぁ、と思う方は読み飛ばしてくださいね、あはは。
ドイツの作家、ローベルト・ムジールの未完の大長編「特性のない男」(全6巻)の中にも、運動家と芸術家との意識的敵対関係を人間文化の根本的な特徴としてあげている。ちょっと長いが引用してしまう。
「なみなみならず多数の人間が、今日では、なみなみならず多数の他の人間にたいして、悲しむべき対立関係に立っている。人間が彼の圏外で生活している他の人間にたいして深い不信をいだくということ、したがって、たんにゲルマン人がユダヤ人をというばかりでなく、フットボール選手がピアニストを、不可解な劣等な存在と見なすということは、文化の根本的な特徴の一つなのだ。結局、あらゆる事象は(中略)その周囲にたいする多かれ少なかれ敵対的な行動によてのみ成立する。」(第1巻・高橋義孝・圓子修平・訳、新潮社)
※注:ちなみに「特性のない男」の新潮社版は絶版、現在入手できるのは加藤二郎の新訳が松籟社から出版されている。新潮社版の翻訳は格調高く、松籟社版の訳は読みやすい。
ね、知的でしょ?(笑)
つまり何が言いたいかというと、会社から帰ってビール片手にナイター中継を見る人種にはとてもなれないのである。
そんな時間があったら、映画のDVDを観るか、読書しますよ、私は。なにしろ芸術体質なんだから。
ところがなぜか私は、格闘技は大好きなのである。ボクシング、レスリング、柔道、空手、K-1、PRIDE。おう! なんでもきやがれ!
あっ、もちろん見るだけですよ、見るだけ。わたくしは基本的に、痛い・きつい・こわいことは嫌いなのだ。当然、大晦日の夜は紅白歌合戦なんか見ない。リモコン片手に格闘技番組のチェックに忙しい。
今にして思えば、池袋には大山倍達の極真会館が存在した。
大山先生には二度ほど電車内で出くわしたこともある。なぜかいつも私を睨んでいて、こわい方だなぁという印象しかない。冥土では牛なんかと闘わないで、ステーキでも食べていてください。合掌。
高校生の頃、あるところからキックボクシングの無料チケットが手に入ったので、毎週のように後楽園ホールへ観戦に行ったことを思い出す。
「真空跳び膝蹴り」の沢村忠が一世を風靡した頃である(知らないだろうなぁ)。
今となっては何もかも懐かしい(最近このセリフばっかりだな)。
キックボクシングの何が面白いのか? ほとんどの試合がノックアウトで終了するからである。リングに近い席なら血が飛んでくることもある。
やはり試合はノックアウトである。優劣を判定で付けようなどとするから、「疑惑の判定」なんてものが生じてしまうのだよ亀田くん。
格闘技はルールのある喧嘩なのだ。喧嘩はどちらかが確実に勝たねば終わらない。リターンマッチは怖じけず真面目に闘ってね。
明日、その後楽園ホールへ、久しぶりにボクシングの観戦に行く。過日、偶然知り合ったボクサーが出場するのである。楽しみである。
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