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テーマ:たわごと(26609)
カテゴリ:いろいろなことで悩もう。
日本人は宗教に節操が無いイメージがあります。
正月は神社に初詣にでかけ(神道)、 春秋の彼岸やお盆にお墓参りに出かけ(仏教)、 子供の成長を願いお宮参り(神道)、 年末にはクリスマス(キリスト教)で盛り上がった余韻を引きずって、除夜の鐘を聞く(仏教)。 一年通してみても、様々な宗教の行事を一年の中に取り入れているわけです。 一生を通してみても、結婚式はキリスト教か神道(もちろん仏教の結婚式もありまが)、葬式は仏教かキリスト教(これも神道があるでしょう)。 家を建てるときは地鎮祭なんていって、神道形式でその地の神様を鎮め奉る。 日本人で生まれてから死ぬまで、一つの宗教にこだわって生きる人というのは、ストイックな宗教家くらいなもんでしょう。 今はやっぱりお寺の住職の家に生まれてもクリスマスを祝ったりするでしょうから。 もっとも、パーティ程度のことで、教会にお祈りに行くことはしないでしょうけど。 で、この日本人の宗教に対する節操の無さなんですけど、これはこれでいいんだと思います。 日本には古来から八百万の神という考え方があります。 山にも海にも田んぼにも、ありとあらゆるものに神様がいるという考え方ですな。 だから、漁に出て大漁だったら海の神様に感謝して、山で大災害があれば山の神様を慰める。 もう、神様がそこかしこに存在して、災難や豊饒のたびにお参りするわけです。 この考え方は、一神教であるキリスト教徒やイスラム教徒にはちょっと理解できないんじゃなかろうか。 日本の八百万の神は自由ですから。 信仰する人の数だけ、もっと言うと信仰する人の考え方の数だけ神様は存在するわけです。 現にこのパソコンにも神様がいると信じれば、パソコンにも神様がいることになる。 山や海や川といった自然の有機物以外にも、現代のパソコン、TVといった無機物にも神様が存在することになるでしょう。 この感覚は日本人以外には多神教を崇拝している人じゃないと、ちょっと理解に苦しむ。 話を戻すと、日本人というのは、元来八百万の神という考え方が土着しているので、割りとなんでも信仰できるんじゃないんでしょうか? もっとも、ただお祭り騒ぎをしたいだけでクリスマスに騒いでいるだけかもしれない。 でも、日本にストイックな一神教が根付いていたら、とてもじゃないけど馬鹿騒ぎはできない。 日本人にとって神様の姿形や存在よりも信仰する行為そのもののほうが大事なんでしょうね。 自分の思いが伝われば、感謝や畏れを抱く対象は何でもいいんです。 それほど、日本人はもともと、懐が深く、悪く言えばお人好しの一面もあるんです。 逆に、だから日本人はイスラム教圏の諍いについて理解ができないのかもしれない。 だって、同じイスラム教でもスンニ派とシーア派があって、て言われても分かりませんもの。 だいたい、お寺で手を合わせるときだって、ここが浄土真宗なのか曹洞宗なのか考えませんから。 悪く言えば、宗教に鈍感だから中東の争いに関しても「仲良くしましょうよ」くらいのことしか言えない。 もっと突っ込んで考えたら、そんな呑気なレベルじゃないんですけどね。 そもそも、その思考は日本人には理解しがたい。 中東に限らず、世界では一神教を信仰している国のほうが多いと思います。 一神教が日本人の宗教に対する多様さの理解に苦しむように、日本人も一神教の一途さの理解に苦しむんじゃないですかね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 4, 2005 04:29:41 PM
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