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高3になったとき 「カウンセラーから、君の成績では受け入れてくれる大学はカリフォルニアにはないよ、と言われた」と、デレックがふてくされて言った。 「なにも、カリフォルニアでなくていいじゃないか。じゃ、どこならあるのか聞いてこいよ。大学卒は大学卒だ」とブルックに言われて再度カウンセラーに相談に行き、 「オレゴン州にならあるが、そこでも最低の成績はXXだから、この一年で追い着いたら入れる可能性はあるといわれた」というので、 「じゃ、僕がてつだってやる」と、今までよりもっと数学と科学にフォーカスして手伝った。その結果、合格の成績に追いつき、デレックはオレゴンの大学に受け入れられた。 デレックは車を持ってなかったので、亡くなった義父のボルボをあげようと思った。中古といってもブルックのおじいさんが最後に持っていたものだから、殆ど乗らずマイレージは物凄く低く最低でも$4,000の価値があった。ただ、無料であげるのは自尊心を傷つけるし、自分で払ったという優越感や責任感を与えるために、500ドルで売る事にした。 「毎月いくらなら払える?」と聞いたら、 「バイトやって$20」というので、 「それでよし!利子もいらない。その代り、毎月必ず最初の週に私に小切手を送るんだよ」と言ったら、一度も忘れずに二年ちょっとかけて払い終えた。保険は親がはらった。その車に寝具、小さな家具、タオルやら服、ギターなどを積み込んでデレックはオレゴンの大学寮に落ち着いた。数年後、母親もラグナビーチに持っていた家を売って、オレゴンに引っ越した。 オレゴンの大学は、芸術を重んじてくれたので、数学や科学が苦手でも、外国語としてドイツ語はできるし、音楽の好きなデレックはギター奏者になり、ほれぼれとするくらい上手なクラシックギターを弾くようになったから、勿論音楽は最高点をとった。心理学も上出来だったらしい。 (大学時代に送って来た写真) 後に「クラシックが好きなんて知らなかった」といったら、「両親はクラシックをよく聞いてたし、毎日ヒロコが弾くピアノも、クラシックだったから嬉しかった」と意外な事を言ったが、大学生中は、ウェディングや、パーティーなどのバイトで弾くようになった。 その内に、カメラに凝りだし、これまたウェディング写真などを撮ったりしていたが大学を卒業したらそれもやめ、高級車のメカニックのライセンスをとり、高級車の修理会社に努めたが、完璧な仕事だが遅過ぎるからと首になった。次は危険コ―スの運転のライセンスもとったりで「スタントマンにでもなるかなあ」といってたのは良いが、そのどれも正式な仕事にはせず、結局は母親とコーヒーの店を開いてギターを弾いたりしていた。人懐こく、好かれるタイプなので結構流行る店になって、私もオレゴンまで訪ねていったが、バブルのはじけだした頃で、次々と店じまいが広がり、ショッピングセンターはガラガラになり、客も来なくなって閉店してしまった。 (これは、大学を卒業してから、私とブルックが気球に乗ってるのを写してくれた中の一枚) 折角二人で二軒買った家も、ローンが払えなくなったので一軒は貸家にして、自分達はもう一軒の二部屋だけに住んで、あとの二部屋を貸してすんでいた。その内に三人子連れの女性にほれられて結婚、我々も結婚式に行ったが、結局は数年で離婚してしまい、自由きままに動ける、コンピュータ―のプログラムを売るセールスマンになって、再婚しあ母親の家と、これまた離婚し独身になったブルックの家と、離婚した前の奥さん(そう、三人子連れの)の家に、好きな時に好きなだけ泊まるという渡り鳥生活をしている。あのイジメ男が、誰からも嫌われず、三軒の家の鍵をもって、自由に泊っている不思議な男である。 仕事はパソコン一つで出来るので、時々我々が旅をするときに、ハウスシッティングをしてもらっている。つまり、自分の家が二軒あるのに、住めない状態なのであるが、それなりに老後の計画はしていて、 「オレゴンの家も値上がりして、やっと二軒売ればローンを払った後に、可なりの儲けになる計算だから、あと何年か待ってみる」と知らせに来たのだった。 (その時の写真がこれである。私は小さく見えるが、168センチある。。 あった???1センチくらい低くなったかも ) (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.07.02 01:57:01
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