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ダウンタウンは、どこの国でも同じだが、活気があり、ハンバーガー、ピザ、サンドウィッチ等のファースト・フードチェーンは行列ができるほどにぎわっていた。息子達はサンディエゴの家用にシャンデリアを買いに行ったので、イリナの妹とウィンドウショッピングをしたり、アイスクリームを食べたりして、人気のあるピザ屋で待ち合わせた。チップなどは払わないかわりに、サービスも雑だが、ウェイトレス達は結構フレンドリーであった。 街中の公園はきれいにメンテされていたが、道路などを修理したり、公衆トイレのメンテをする経費がないらしく、道はでこぼこ、トイレは見られたものではなく、第一危険で非衛生的であったから、人々はトイレに行きたくなればレストランで食事して使用したようであった。レストランと言えば、ある晩、皆を中華料理レストランでごちそうしたのだが、客は我々だけであった。4人で食べて$70位だったから、私にしては大したことは無かったが、イリナと妹が驚愕、それはそうだろう、眼科医であったイリナの月給の二倍強であったから。 ピザ屋だって、収入から考えたらそうちょくちょく行けるわけではない。数人で行き、コーラをのみながらピザを一切れずつわけあうくらいであろう、若者達はみなその様にしているようだった。過去にユーゴスラビアであった時代に何度もいったので知っている、ベルグラードのピザ屋も賑わっていていたが、やはりウクライナと似たような状態で、大勢の若者が特別な日だけに集まったようである。一般人の外食は本当に希なイベントであった。 私は戦中に生まれているから、それは日本も同じだった事をはっきり覚えている。公衆トイレは穴があいてるだけで、トイレットペーパーもなく、汚いなんてものではなかった。人々は道端でへいきでおしっこなどしていたし、(大)もところどころの物陰に落ちていた。今の若者がみたら、気絶してしまうかもしれない。外食などは年に一度、あったか、ないか。もちろん、日本は出前というシステムがあるから、それも数えるなら、ヨーロッパの国よりはずっとラッキーかもしれないが、それとて年に数回であった。そして、考えてみたら私もイリナと同じ事をかんがえて日本を離れている。戦争とか、世の混乱は元をたどれば、全部独裁者や大企業があやつる政治家の権力争いから来てる。 数年前に行ったユーゴスラビアは、平和で物に溢れ、生活水準もずっとあがっていた。最初に行ったのは1987年だから30年以上たっていた。日本も1945年から64年のオリンピックまで20年かかっている。民主主義になったウクライナも、ポーランドも、20年後には平和で生活水準がグーンと上がっていて、親友のポーランド人のマリーによると、「私が出て来たころからみると、アメリカより生活水準があがってる」との事。彼女もイリナや私と同じ理由でアメリカにきている。 何故、この思い出を書いているかというと、ながいロシアの抑圧からやっと自由になって、平和の道を歩き始めた頃のウクライナをしってもらいたかったからで、あれから20年自由の道を求めて歩き続け、途中でヤヌコビッチのような悪代官が現れては消え、やっと民主主義、生活水準も上がってきた今、またロシアがその自由を破壊しはじめたから、プーチンのその醜さ、その非人道的極悪さをかんがえていただきたいからである。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.02.27 09:28:58
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