美術の疑問
今日はちょっと話題を変えてみよう。ジャズの有名なスタンダートにTake the "A" Trainという曲がある。この曲、邦題では「A列車でいこう」となる。確かにその通りなのだが、ニューヨークの事を知っている人は、「おや?」と思うに違いないだろう。それはA Lineはあっても、A Trainは存在しないからだ。ハーレムに行くにはA Lineに乗りなさい、というのが本来なのだが、Take the "A" Line では、どうにも語呂が悪い。メロディーを知っていたら歌ってみて欲しい。You must take the A line......使えないのだ。だからこの邦題、もう少し考えた方がよいといつも思っている。作者の本意はちがうだろうと、、前置きはさておき、日本語と英語の間だの食い違いが気になる言葉がある。それは「美術」という言葉だ。英語ではArtと言う。何故ゆえに「美術」なのかという疑問だ。この言葉の起源は学者ではないので、何とも言えないが、英語と照らし合わせてみると、どうにもこうにも厄介な言葉になってしまう。それはArt=「美」であるかのような錯覚を憶えてしまうことに他ならない。日本の学校でアートを学ぶ教科のことを「美術の時間」という。また部活動を「美術部」という。これは問題に思えてならない。なぜならアートは美とは限らないからだ。こんな話を突き詰めていくと、「そもそも美とはなんだ」という素朴な疑問に収束するが、そんな話を始めたら、本が出来てしまうようなテーマなので、今回除外する。一般論の美として考えてみよう。さて、単純にピカソ、マティス、はたまた、マルセル・ドゥシャン、ジャクソン・ポロックといった、若干時代やムーブメントも違う画家達は、印象派しかしらない人間にとって、とても美とは言いがたい作品を排出しながらも、高い評価を受けているのはどうなのか?一般論の美に相当するのだろうか?僕にはそうは思えない。ありふれた女性のヌードの方がよほど美しく見える。どうも、この「美術」という言葉が、日本人の絵画や彫刻鑑賞に対する先入観を植え付けているような気がしてならないのだ。ルノアール、ロートレック、モネ、ミレー、ゴーギャン、レンブラント、ターナー、サージェント等々、みんな素晴らしい画家であることには間違いないが、あまりにも一般民衆が印象派ばかりを好むのは、この辺りが原因ではないのかという疑問が今日の本題だ。「美術」を辞書で引いてみた。定義はこうだ。「色や形により美を表現する芸術」とある。やっぱり美でなければならないようだ。何かおかしい。一方Artの方はどうだろう。"Creative or imaginative activity, esp. expressive arrangement of elements within a medium"(創造的、または空想的な行為。特に素材を利用再編して行う、表現伝達。)翻訳すると少々ややこしく抽象的な表現になるが、明らかに後者の方が中立的で合理的だと僕は思う。この文章の中にBeautyという言葉は一度も使われていない。道義的に使用されているアートと美術という言葉の間には、これだけ大きな隔たりがあるのだ。日本の情操教育において、偏った先入観を植え付けるような言語表現は、いかがなものかと思う。じゃ、どういえば良いのか?美術と言う言葉は、曖昧な定義のまま芸術に内包されているので、これを利用して「技芸術」と言うのはどうだろうか。こんな事を言い出すのには理由がある。印象派絵画一辺倒の一般大衆は、もっと異なった「技芸術」を理解するべきだと思う。もっと広い視野で見る、聴く、感じる事が出きるようになることが大切だと思う。でないと、本物志向の「技芸術家」達がこの社会から姿を消してゆくことになりかねない。これは問題である。■