東照神君の再来
慶応3年(1867年)12月9日御所の門を固めていた会津・桑名の兵を追い払い、薩摩を中心とする討幕派による「王政復古のクーデター」が行われました。「徳川慶喜に官位を返上させ、その領地も返還させよ」その後に引き続き行われた「小御所会議」での決定に基づき、慶喜に対しても、「辞官納地」の要求が通知されました。この時、二条城にいた慶喜は、一旦はこれを承諾し、憤激する会津・桑名などの主戦派をなだめて、大坂へと兵を引き上げていきます。しかし、この時、慶喜は、「辞官納地」の通達のために訪れた松平春嶽(越前)と徳川慶勝(尾張)に、その後の調停を頼み、そして、幕府に同情的な、これら諸侯たちが、やがて、反クーデターのために結束を始めていくことになります。薩長の明治政権というのは、「王政復古のクーデター」により確立したというわけでは決してなく、その後の成り行きによっては、どのようになっていくのか、混沌とした状況であったのです。慶応3年(1867年)12月12日これら、在京の諸侯10藩は、連署してクーデター批判の意見書を提出。新政権の実態は、こうした諸侯連合の形であったとも言え、彼らの発言力が強く、これを受けた岩倉は動揺します。そして、結局は、・慶喜が「辞官納地」に応じれば、慶喜を新政権の議定に迎え入れる。・領地返還に関しても、これは領地の返還ではなく、新政権への財政援助という名目にする。・領地の返還(財政援助)は、徳川家だけでなく、各藩が応分に拠出する。などと、新政権からの要求はどんどんと譲歩していくことになっていきました。「辞官納地」についての会議が行われても、岩倉は、その対応に窮し、病と称して欠席するようにさえなっていきました。さらに、この新政権において、最も深刻だったのが、資金不足の問題。諸侯の協力も得られず、また、有力商人たちも新政権を信用せずに金を貸してくれないため、新政権は、極度の財政難となっていました。岩倉も、この時期には、慶喜に対して、千両の借財を申し込まざるを得ないほどの状況であったのです。こうした状況に至っては、さすがの大久保一蔵も、手の打ちようがなく、「すべて、瓦解土崩、大御変革も尽く、水泡画餅と相成るべく・・・」と、その絶望感を日記に書き記しています。そもそも、領土の返還とは言っても、徳川家は、その領土を朝廷からもらったわけではなく、戦国期に自力で取得したもの。この”領土を返還せよ”、というクーデター側の論理には、最初から無理があったのです。ところで、一方、対する慶喜の側は、着々と勢力を固めていました。12月16日、慶喜は、大坂城に欧米各国の公使を集め、自らが政府の主権者であると宣言します。「今、京都で起こっている事件は、幼主を担ぎ、私心で行われている暴挙であり、自分は、必ずこれを解決するので、各国は手出しをしないで頂きたい。・・・」こうした、慶喜の対外交渉に対抗し、新政府側も、自らの正当性を主張する詔書を提出しようとしますが、諸侯たちは、これを認めず署名を拒否したため、詔書を出すことも出来ません。新政権は、全くの手詰まり状態となり、天皇を担いで、新政権を宣言はしたものの、周りからの協力を全く得られないまま、孤立した状況となっていったのです。慶喜の側には、すでに国家構想もありました。軍政改革による、軍備の充実も進められていました。これらは、以前のブログ、 大君の国家構想 で書いているとおりです。かつて、長州の桂小五郎が、慶喜のことを評して、「東照神君(家康)の再来」であると言い、その才覚を恐れたといいますが、まさに、そうした慶喜の面目躍如といった状況になってきたのです。このまま推移すれば、クーデター新政権は、もろくも崩壊してしまう・・・。しかし、こうした状況を、最後の最後に、くつがえすことになったのが、西郷隆盛の放った奇手であったのです。この続きは、また、次回に。