小御所会議
これまでの武家支配による体制を一変し、天皇を中心とする新政権を樹立すると宣言した、クーデター政権。慶応3年(1867年)12月9日、クーデター政権は、「王政復古の大号令」の発令に引き続き、この日の夕方、御所内の小御所というところに関係者を集め、今後の新体制をどうするかについての会議を開きました。世に「小御所会議」と呼ばれているものです。この会議の出席メンバーは、クーデター計画に賛同した、公卿と諸侯、そして、その重臣たち。天皇臨席のもとで行われる御前会議の形が取られました。まず、議定である公卿・中山忠能が開会を宣言。会議の冒頭、公卿側から「徳川慶喜は政権を返上したというが、果たして忠誠の心から出たものかどうか疑わしい、忠誠を実績で示すべきである。」との提議がなされました。慶喜は、大政奉還で政権を返上したとはいっても、その官位は内大臣の位にあり、また、将軍の地位を退いたとしても、その所有する領地は、400万石を越える大大名であります。この"忠誠を実績で"という提議は、慶喜に対して、官位と領土を返還せよとする「辞官納地」を求めるという意味で、この是非をめぐる議論が、この会議の主要議題となっていきます。これに対し、猛然と反論し、クーデター政権を批判したのが土佐の山内容堂でありました。「このたびの挙は、すこぶる陰険である。大政奉還の大英断をなさった慶喜公が、この席に招かれていないこと自体、そもそも、おかしいではないか。」「このような暴挙を企てた数名の公卿は、何の定見があって幼沖の天皇を擁し、権力を盗もうとするのか」王政復古宣言というのは、一部の者による陰謀であると指摘したのです。しかし、対する岩倉具視も、これに譲らず反撃を行います。「幼沖(幼少)の天皇を擁しとは、なんたる妄言ぞ」「聖上は不世出の英材をもって大政維新の洪業をお建てなされた。今日の挙はすべて宸断に出ている。」天皇を幼いとの発言は非礼ではないか。という、岩倉の批判には、さすがの容堂も詫びる他ありません。しかし、そこへ、容堂への助け船を出したのが、越前公の松平春嶽。彼も、この会議への慶喜の出席を重ねて求めます。岩倉と大久保一蔵(薩摩)は、慶喜が辞官納地に応ずることが前提であり、そうでなければ、免官削地を行いその罪を天下にさらすべきであると主張。それに対し、土佐の後藤象二郎が、山内容堂の意見を支持して。公明正大なやり方で進めていくことが肝心であり、この会議のやり方は陰険であるとし、新政権に慶喜をも加えるべき、との論を繰り広げました。その後、大久保・後藤の間で激論が交わされます。しかし、やがて、尾張公の徳川慶勝も容堂の意見を支持。岩倉・大久保の慶喜排斥の主張は、薩摩候の島津茂久が賛同したのみという状況で、薩摩は孤立し、会議の趨勢は慶喜許容論へと傾いていくことになります。この流れを、何とか変えたいと思った岩倉は、会議の一時休憩を働きかけ、会議は一旦休憩に。そして、この休憩時間の間に、様々な動きがあって、会議の様相が、一変していくことになります。ここまでは、不利な状況であった岩倉・大久保らの慶喜排斥論。しかし、その状況を変えるきっかけとなったのが、西郷の一言でした。西郷隆盛は、この時、会議には出席しておらず、御所の警備を取り仕切る役割に回っていました。しかし、休憩の間に、こうした会議の状況を聞き、意見を求められると、「短刀一本でかたづきもす」 と答えました。つまり、刺し違える覚悟で臨めということを伝えたのです。この西郷の話が岩倉に伝えられ、岩倉は、安芸候の浅野茂勲に対して、かくなる上は、非常手段を取る覚悟をしていると話します。これに驚いた浅野は、土佐藩に譲歩をさせる必要があると考え、安芸藩家老の辻将曹に命じ、土佐を説得させます。一方、この時、後藤象二郎は、休憩所において、大久保を翻意させるべく、下交渉を進めていました。そこへ、安芸の辻将曹がやってきます。辻は、岩倉の決死の覚悟を後藤に伝え、状況によっては、容堂公の身が危ういということを話しました。大久保に対しての説得交渉も進まない状況であり、ついに、後藤は、山内容堂に妥協するよう説得に向かいます。「このまま、慶喜の擁護を続けていると、慶喜公に策謀があって、土佐は、それを隠そうとしているように取られかねません。」結局、容堂は、後藤の説得を受け入れました。やがて、会議は再開。再開後は、山内容堂も松平春嶽も、反対意見を述べることなく、終始、岩倉・大久保のペースで会議が進行していくことになります。そして、結局、徳川慶喜の「辞官納地」が決定。慶喜に対しては、松平春嶽と徳川慶勝が、この決定を伝えることとし、慶喜が、自発的に、これを申し入れるという形式をとるようにするということが、決められました。結局、この会議が終了したのは、午前3時頃。昨夜も徹夜の会議があって、そこから始まっている、この12月9日の政変劇というのは、実に長い長い一日であったのです。ところで、この「小御所会議」について、徳川慶喜の「辞官納地」が決定されたことから、これをもって、討幕派が勝利した、という、とらえ方をされることがありますが、しかし、実際には、事態はそう簡単に進展しませんでした。「辞官納地」という決定も、次第に骨抜きにされていくことになります。さらに、そればかりか、このクーデターにより出来上がった新政権というのは、いざ、フタを開けてみると、諸侯などからの支持を、ほとんど得ることが出来ずに孤立し、立ち上げ早々から、自壊状態にあるということが、わかってくるのです。こののち、この新政権は、窮地に追い込まれていくことになります。