京都一乗寺 ゆかりの人々
「詩仙堂」のある一乗寺周辺は、史跡や旧跡も多く残されていて、ちょっとした史跡の町でもあります。先日、「詩仙堂」に行った時に、その何ヶ所かを訪ねてみたのですが、一乗寺にゆかりのある人というのが、結構、バラエティーに富んでいると感じました。そこで、今回は、そうした一乗寺ゆかりの人々を中心にして、一乗寺の史跡めぐりをまとめてみたいと思います。まず1人目が、「一乗寺下り松の決闘」で有名な宮本武蔵です。宮本武蔵といえば、二刀流の剣の達人として、有名な人ですね。二十歳の頃から京に上り、天下の兵法者と数度の戦いを行うも、勝利を得ない事がなかったといいますから、尋常でないほどに、強かったのでしょう。そうした武蔵の生涯の中でも、最初に武蔵の名を世に知らしめたのが、一連の、吉岡一門との対決です。吉岡一門は、代々足利将軍家の師範を務めている名門であったのですが、幾度か、武蔵と闘って敗れ、一門の存続が危うくなるところにまで追い込まれていました。そこで、吉岡一門が、武蔵の殺害を図るために仕掛けたのが、「一乗寺下り松の決闘」でありました。剣術では武蔵に勝てないと考えた吉岡の門弟たちは、一乗寺下り松での決闘を武蔵に申し込み、そして、その裏では、秘かに、門下生数百人に弓矢・鉄砲などを持たせて、武蔵を討ち取ることを計画したのです。ところが、武蔵もこれに気付いていました。まだ夜のうちに下り松に来て、松の陰に隠れ、吉岡一門が来るのを待ち受けます。 そして、戦いが始まるや、武蔵は、敵将の幼君・又七郎を斬り殺し、その後、数百人の敵を打払いつつ退却していきました。 ここが、「一乗寺下り松の決闘」が行われたとされている場所です。この記念碑の横には松の木がありますが、これは、もちろん決闘の当時のものではありません。この時の松の木は、今、どうなっているのかというと、ここの近くの「八大神社」というところに残されているのだそうです。「八大神社」というのは、一乗寺の地元の氏神様で、祭神は、素盞嗚命(スサノオノミコト)と稲田姫命(イナダヒメノミコト)だということです。「一乗寺下り松」の松の木は、その一部が、神社本殿の西側に祀られていました。また、その傍らには、宮本武蔵の像も建てられています。さて、次は、俳人の松尾芭蕉と与謝蕪村。この2人にゆかりの場所も、この一乗寺にありました。松尾芭蕉は、吟行の旅で京都を訪れた時には、一乗寺にある金福寺(こんぷくじ)という寺の鉄舟和尚のもとを訪ね、親交を深めていました。和尚は、芭蕉の高風を偲んで、当寺にあった庵を”芭蕉庵”と名付けていたということです。金福寺です。この庭の石段を登っていったところに”芭蕉庵”があります。しかし、鉄舟和尚が、”芭蕉庵”と名付けた庵も、和尚の死後は、荒廃していました。そして、この”芭蕉庵”を再建したのが、80年後に、この地を訪れた与謝蕪村でありました。芭蕉を敬慕していた蕪村は、その後も、この地に何度も立ち寄ったとされていて、ここで詠んだとされる句も、いくつか残されています。金福寺には、蕪村の句碑もありました。 三度啼きて 聞えずなりぬ 鹿の声 我も死して 碑にほとりせむ 枯尾花そして、与謝蕪村の墓もこの地に残されています。さて、もう1人、この地にゆかりの人。幕末、安政の大獄の時に、井伊直弼のもとで諜報活動に活躍した村山たか女です。村山たかは、直弼の彦根での部屋住み時代からの愛人で、直弼が大老に就任し、安政の大獄が始まってからは、京都で尊攘派の動向を探り、幕府への密報を続けていました。ところが、桜田門外の変で井伊直弼が斃れたことにより、たかは、尊攘派の志士から恨まれることになります。たかは、捕らえられ、京都の三条河原で生き晒しにされました。しかし、その後、村山たかは助け出され、救出された後のたかは、落飾して尼となり、金福寺に入ります。金福寺は、村山たかが、その余生を送り生涯を閉じた場所でもあったのです。金福寺には、たかの位牌や多くの遺品も展示されており、また、たかの詣墓もこの地にあります。(正式な墓は、この近くの円光寺です。)「詩仙堂」に行ったついでに寄ってみただけだったのが、意外な歴史にも遭遇した一乗寺。一乗寺は、他には、特に何もない、静かな山里ではありますが、不思議と、人をひきつけるような魅力があり、それだけに、様々な人々が、この地を訪れたということなのかも知れません。