油小路の決闘
幕末の京都で、尊王攘夷派の浪士たちを取り締まり、佐幕派の人斬り集団として恐れられていた新選組。しかし、その新選組の中にあって尊王攘夷の考えを持った異分子的存在であったのが伊東甲子太郎(いとうかしたろう)です。甲子太郎は、新選組入隊直後から、幹部として迎えられましたが、ほどなくして、新選組と分かれて「御陵衛士」という別個の組織を結成します。今回は、この伊東甲子太郎の足跡と、非業のうちに斃れたその末路についてのお話です。伊東甲子太郎が、新選組に入隊したのは、元治元年(1864年)10月のこと。新選組局長の近藤勇は、組織の強化を目指して、江戸で隊士を募集しましたが、この時の募集に応じて入隊したのが、伊東甲子太郎を中心とする、北辰一刀流・伊東道場の面々でした。この時の江戸行きには、新選組の生え抜きで、副長助勤という幹部でもある藤堂平助が同行。彼らの入隊は、もともと伊東の弟子であり、甲子太郎とも親しかった藤堂平助が仲介したものでありました。甲子太郎とともに入隊した主なメンバーは、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄ら。この頃はすでに、池田屋事件により新選組の存在が注目されるようになっていて、そうした中での、中途入隊でありました。甲子太郎は、新選組入隊と同時に、いきなり参謀の地位をあたえられ、近藤・土方に次ぐ、ナンバー3の位置につきました。甲子太郎という人は、文武両道に優れ、容姿端麗で弁も立ち、人望も高かったようです。近藤も、武闘集団である新選組の中にあって、甲子太郎の持つ学識・見識に、さぞ、期待していたものと思われます。しかし、そもそも甲子太郎は、水戸学や国学にも傾倒し、尊王攘夷の考えを持った人でありました。佐幕派である新選組とは、考え方が違うはず。そうした甲子太郎が、なぜ、新選組に入隊したのでしょう。その理由の一つと考えられるのが、当時、政治の中心となっていた京の町で、活躍したいと思っていた甲子太郎にとって、その絶好の機会であったということ。あるいは、新選組を利用して、尊王攘夷の活動を進めたいと考えていたのかも知れません。甲子太郎は、入隊後においても、敵情を探るという名目をつけて、薩摩や長州の志士たちとも、半ば公然と接触を広げていきます。そうした状況ですから、両者は、早晩、衝突することは明らかであったといえるのです。やがて、甲子太郎は、尊攘派の名士たちとパイプを持てたことに満足したのか、新選組にいることに意味を感じなくなったのか、甲子太郎は新選組を脱退する決意をします。 慶応2年(1866年)11月。近藤の妾の家で、近藤・土方と伊東・篠原が集まって、今後の方針についての激論が交わされました。「お互いに、別にやっていく方が良い」ときり出したのは甲子太郎。敵になるのではなく、あくまでも分離であり、別の立場から、同じ方向を目指すのだ、と甲子太郎は主張したといいます。結局、この場では甲子太郎の主張が認められ甲子太郎は、分派に向けての活動を始めていくことになります。やがて、甲子太郎は、つてを通じて朝廷に働きかけて、「孝明天皇御陵衛士」という職を新設してもうことに成功します。前年に崩御された孝明天皇の御陵建設を管轄し、完成後は、その護衛をするというのが、この新職の任務。甲子太郎は、この任務を通じて、朝廷と結びついていこうと考えていたのです。慶応3年(1867年)3月。甲子太郎は、新選組を正式に離脱。篠原や鈴木・藤堂などの同志14名と共に「御陵衛士」を結成します。しかし、これが新選組の別働隊であると言っていても、それは建前だけのこと。実際には、両者は敵対し、甲子太郎の方は、仲間をスパイとして新選組に残していましたし、新選組の方でも、斎藤一を御陵衛士に送り込むなど、互いに相手の出方を監視していたのです。そうした中、新選組としては、伊東一派をこのまま見逃すつもりは全くなく、彼らに対して、報復する機会をはかっていたのでありました。慶応3年(1867年)11月18日。近藤は、相談があると口実をつけて、七条の妾の家に甲子太郎を招き、酒宴を張りました。伊東派からは、甲子太郎ひとり。新選組からは、多くの幹部が出席し、昼頃から始まった酒宴は、延々と続いて、終了したのは、夜の10時頃だったといいます。宴が終わり、したたかに酔って帰る甲子太郎。ひとり歩きで、油小路・本光寺の前まで来たところを、数名の男たちに囲まれます。新選組の放った刺客でありました。泥酔はしていても、さすがは使い手の甲子太郎。敵に一太刀を浴びせますが、それでも、槍に突き立てられて、最後には敵わず「奸賊ばら」と一声叫び、絶命したといいます。新選組の自分に対する信頼に、よほど自信を持っていたということなのかあまりに無用心な、最期でありました。しかし、新選組はこの時、甲子太郎だけではなく、「御陵衛士」のグループ自体を、壊滅させることを考えていました。そのため、甲子太郎の遺骸を油小路の辻まで運んで行って、そこに放置します。甲子太郎の遺骸をおとりにして、「御陵衛士」のメンバーをおびき出しまとめて粛清しようとしたのです。はたして、この報を聞いた「御陵衛士」の同志たちは憤り、すぐさま、遺骸を引き取りに油小路へと向かいます。この時、駆けつけたのは、篠原泰之進・鈴木三樹三郎・藤堂平助・服部武雄・毛内有之助ら7名の同志です。しかし、この時、新選組は、すでに40名の隊士を油小路に集めていて、彼らが来るのを待ち伏せしていたのでありました。そして、ここで、すざましい激闘が繰り広げられることとなります。最も、激しい闘いをみせたのが服部武雄。彼は、隊内でも相当な二刀流の使い手として知られていた達人で、その孤軍奮闘には、鬼気迫るものがあったといいます。しかし、最後は、服部の刀が折れたスキを狙って原田左之助が繰り出した槍により落命します。 最も、運命的な最期を遂げたのが藤堂平助。彼は、新選組結成以前からの隊士であり、近藤も、藤堂の命だけは助けたいと願っていました。永倉新八・原田左之助ら、昔からの同志も、藤堂だけは逃がしてやろうとしたのですが、しかし、そうした心情を知らない他の隊士が藤堂に斬りつけます。藤堂も、結局、この乱戦の中で討死してしまうのです。「御陵衛士」側の死者は、3名。他の4名は、なんとか、この場を斬り抜けて、薩摩藩邸に逃げ込みました。これが、世に「油小路の決闘」と呼ばれている事件。ちょうど、龍馬暗殺の3日後のことで、新選組の中では、池田屋事件に次ぐ大きな規模の闘いでありました、ちなみに、こののち「御陵衛士」の残党は、薩長側のメンバーとして戊辰戦争にも従軍。特に、彼らの新選組に対しての敵慨心は強く、後に、近藤勇を狙撃する事件を起こしたりしています。ところで、「御陵衛士」の領袖であった甲子太郎ですが、彼は、いったい何を目指していたのでしょう。甲子太郎は、朝廷に建白書を提出しているので、それをもとにして彼の意見をまとめると、・公家中心の新政府をつくる。・畿内5ヶ国を朝廷の直轄領とする。・開国による富国強兵 さらには、徳川家をも政権に参加させるという内容もあり、ある意味坂本龍馬にも近い穏健的な考え方をしていたようです。しかし、彼の残したこれまでの足跡を振り返った時、なにか、策のみが先行していたようにも思われます。伊東甲子太郎という人は、この国に対する理想や思いといったものよりも、自己の才気を世に発揮したい、そういう自己実現のための欲求から動き回っていた人だったような感じがします。