近江屋事件
その日は、なぜか来客の多い日でありました。慶応3年(1867年)11月15日。この日、「近江屋」の坂本龍馬のもとを最初に訪ねたのは中岡慎太郎でした。新選組に襲われ、薩摩藩にかくまわれていた宮川助五郎という土佐藩士を陸援隊で引き取って欲しいと依頼を受けていた慎太郎は、その相談をするために龍馬のもとを訪ねたのでした。しかし、他の話でも盛り上がったのでしょう、慎太郎は、結局、龍馬のところに長居することとなります。志士であり、南画の名手でもあった板倉塊堂という人もこの日、龍馬のもとを訪ねた一人でした。この日が龍馬の誕生日ということで、寒椿と白梅の絵を描き、それを掛軸にして誕生祝いに持ってきたのです。塊堂は、掛軸を渡すと早々に龍馬のもとを辞しています。龍馬は、この絵が気に入ったようで、早速、この掛軸を座敷の床の間に掛けました。海援隊隊士の宮地彦三郎も龍馬のもとを訪ねました。イギリス公使からの親書と土産品を山内容堂に渡すために大坂に行っていて、その経過報告のためです。龍馬から、上がっていくようにと勧められますが、大坂から帰る途中なのでと辞退、玄関で報告だけを済ませて帰っていきました。夜になると、土佐藩士の岡本健三郎と、本屋の倅、菊屋峯吉が龍馬のもとにやってきます。岡本健三郎は、最近、龍馬と各地に同行することが多く、軽輩の身分で龍馬と気が合ったのでしょうか、この頃、特に龍馬と仲が良かったようです。菊屋峯吉は、土佐藩御用達の本屋の倅で、龍馬や慎太郎から可愛がられていて、よく使いぱしりをしていたという青年です。ところで、この日は寒い日でした。風邪をひいていた龍馬は、胴着を着込み、火鉢にあたりながら慎太郎と差し向かいで話こんでいました。やがて、腹がへったと龍馬。軍鶏(しゃも)が食べたいと言いだし、峯吉に軍鶏を買ってくるよう頼みました。軍鶏肉を買いに出る峯吉。健三郎も、これを潮に、おいとますると言って出て行きました。こうして「近江屋」の2階に残ったのは、龍馬と慎太郎、そして下僕の山田籐吉の3人になりました。そして、事件はこの瞬間に起こったのです。今の時間で言えば、午後8時頃。何者かが「近江屋」の表戸を叩きました。応対に出たのは、下僕の籐吉です。数名の男たちで、十津川郷士と名乗り「坂本氏に至急面会したい」と札名刺を籐吉に渡しました。名刺を持って二階に上がり、龍馬に名刺を渡した籐吉。階段を降りようとしたところを籐吉は、訪ねてきた男にいきなり斬りつけられます。大きな声が龍馬にも聞こえましたが、龍馬は、てっきり、籐吉が近江屋の子供たちとじゃれているものと思い込みました。「ほたえなや」(静かにしろ)と叫びますが、その次の瞬間には襖が開き、男たちが、龍馬の部屋に飛び込んできました。突然のことで、手元に刀もなく、龍馬も慎太郎も全く対応が出来ません。慎太郎は、手元の脇差で相手の斬り込みを受け、龍馬も、「石川!刀はないか!」と慎太郎を変名で呼びつつ、なんとか刀を手にはしたものの、鞘を抜く暇がない状態で、2人は、散々に斬りつけられました。やがて、もう存分に斬ったと思ったのか、男たちは去っていきます。まさに、あっという間の出来事でした。それでも、2人はまだ生きていました。「慎太、どうした、手が利くか」と龍馬。「利かん」と慎太郎。龍馬は、そこから隣の部屋まで這っていき、一階の近江屋新助に対して、「早よう、医者を呼べ」と叫び、そこで気を失いました。慎太郎は、助けを求めようと、近江屋の隣の屋根に這い上がり、隣家に声を掛けますが、慎太郎もそこで気を失います。そこへ、軍鶏肉を持って峯吉が帰ってきました。そこで峯吉が見たものは、わずかの間に変わり果てた近江屋の、すざましい光景だったのです。近江屋の2階では、籐吉が倒れて苦しんでおり、奥の八畳の間は、血まみれになっていました。続けて、この知らせを受けた人々が、続々と近江屋に駆けつけてきます。土佐藩の谷守部(干城)、薩摩藩の吉井幸輔、陸援隊の田中光顕、海援隊の宮地彦三郎・・・土佐藩の藩医も駆けつけてきました。この時点で、龍馬はすでに重態で、慎太郎は重傷ながらも、まだ、話が出来る状態でした。しかし、結局は、その手当ても及びません。龍馬が、次いで慎太郎も、ついに2人は、帰らぬ人となってしまいました。新しい日本の姿を考え、行動し、大きな足跡を残した龍馬と慎太郎。しかし、結局、新生日本の姿を見ることもなく、あまりにも、あっけない、早過ぎたその死でありました。龍馬と慎太郎の葬儀は、今も2人の墓が残っている京都の霊山で行われました。2人の葬儀は、刺客の襲撃を避けるため、夜中に、ひっそりと行われたのだそうです。