山国隊の史跡を訪ねて
明治維新の折、進んで勤王軍に参陣していったという、山村の義勇兵「山国隊」。彼らは、いったい、どのような思いを持って戦線へと出向いていったのか。山国村には、今も、凱旋後の彼らを顕彰した当時の史跡が残されているといい。少しでも、「山国隊」の息吹に触れてみたいという思いから、その史跡の跡を訪ねてみました。山国村を縦断するようにして走っている山国街道(現・国道477号線)。その道沿い、「山国護国神社前」のバス停から歩いて数分のところに、山国隊士の慰霊のために建てられたという、山国護国神社があります。戊辰戦争の激戦を終え、山国隊が村に凱旋してきたのは、明治2年のこと。この時、山国隊の隊士が全員集まり、報告祭が行われたのですが、それと同時に、従軍中に戦死あるいは病死した7名の隊士を弔って、彼らの墓標が建てられました。この招魂の跡が、山国護国神社の前身。その後も、京都府の官費による招魂祭が、毎年、この地で行われ、永らく、ここは、官営の招魂場とされてきた場所でありました。鳥居から続く石段を登っていくと、さほど広くない台地になっていて、そこに、山国隊士の墓碑や、いくつかの顕彰碑が建てられています。戊辰戦争従軍中に戦病死した隊士、7名の墓碑です。山国隊の戦歴の中、宇都宮・安塚の戦いで死亡したもの3名。宇都宮の戦いというのは、幕府軍が、ここを抵抗拠点のひとつとしていたというだけあって、山国隊にとっても最大の激戦となった戦いでありました。敵兵の銃弾を浴びて絶命した高室治兵衛・田中浅太郎。激戦の中、行方知れずとなった新井兼吉。以上の3名。上野・彰義隊との戦いで戦死したもの1名。上野での戦いは市街戦となり、田中伍右衛門は、宿屋の2階から小銃で応戦している中、敵の銃弾が貫通し死亡しました。他に、過酷な戦陣環境の中、病を発し死亡したもの、高室重造、北小路万之輔、仲西市太郎の3名。計7名の墓碑であります。農民義勇兵であった山国隊、政府軍の中においては、鳥取・因幡藩の配下という位置づけでありました。それ故に、山国隊の隊長を務めていたのは、因幡藩の重役であった河田左久馬という人。そうした中、実質上、山国隊の中心となっていたのが、藤野斎という人でありました。藤野は、山国村の名主の家の出身で、山国隊結成時の発起人の一人。漢学の素養があり、医術の心得もあったという、村きっての教養人でありました。山国隊取締という役職で戊辰の遠征に従軍し、隊士の世話役・教育係、因幡藩との交渉から資金のやりくりまで、それらを一手にこなし、隊士からも非常に慕われていた人だったと云います。山国隊を軍としてまとめ上げ、彼らをここまで導いてきたということも、彼の力に負うところが大きかったのだろうと思われます。そんな藤野の墓碑も、大勢の隊士の墓碑の中に、ひっそりと佇んでいました。ちなみに、余談ではありますが、この藤野斎は、日本初の映画監督となり、日本映画の生みの親でもあった牧野省三の父にあたり、牧野は生前、山国隊の映画を一度作ってみたいと、常々語っていたと云います。隊士の墓碑とともに、いくつかの顕彰碑が建てられています。戊辰戦争時の因幡藩主であった池田慶徳。山国隊の隊長・河田左久馬。京都府知事の槇村正直。 等々。これらは、明治期に行われた招魂祭に際して建てられたものなのでしょう。この顕彰碑からは、戊辰戦争後、間もない頃の人々の熱気が伝わってくるような感じがします。山国護国神社を出て、田園の小径を少し歩きました。次に向かうのは、村の人々から五社明神と呼ばれ、古くから、この村の心のよりどころともなっていたという古社・山国神社です。この神社の創建は、奈良時代の末頃。平安京造営の時、用材供出の功によって、和気清麻呂を祭主として本殿が造営されたのだと云います。その後、平安中期には皇室の勅願所とされ、また、足利義満からも奉納を受けるなど、小さいながらも広く信仰を集めてきた神社でありました。山国隊が陣を揃え出陣していったのも、この場所であり、帰郷して、まず、報告に参上したのも、この神社なのでありました。毎年10月に行われている山国神社の秋祭り(還幸祭)。この時には、祭りの御神輿とともに、時代祭の維新勤王隊さながらに、鼓笛隊の行進が行われます。神社に続く橋の欄干に彫られている、山国隊の行進の様子。今でも、年に一度、山国村では、山国隊の勤王マーチが、村いっぱいに響きわたります。このように何げなく、のどかな佇まいを見せている山国村。しかしながら、この村には、独自に背負ってきた、いくつもの歴史がありました。山国街道沿いを再び歩いていると、山国自治会館の建物があり、その前の石碑に、小学校の校歌が刻まれているのを見つけました。この村の小学校、今では京北第二小学校と変わっていますが、以前は山国小学校といっていました。これは、その山国小学校だった頃に歌われていた校歌だということです。 遠き御代より つぎつぎて 雲井の御所に 縁に深く 御杣の民や 主基の御田 又はかしこき 御戦の 御さきとなりて つかえつる 歴史栄えある 我里よこの村が経てきた歴史に対する自覚と誇り。その根源となっているのは、皇室の杣人(きこり)であったということに由来しているのだろうと思います。この校歌には、そうした村人たちの思いが凝縮されているようにも思えます。維新期に、山国隊が見せた無償奉仕の精神というのも、そうした歴史と風土の中から生まれてきたものであると、そんなことが、実感できる山国の旅でありました。