鉢の木
鎌倉武士には、御恩と奉公という主従の契約関係がありましたが、その分、そこには、熱き忠誠心を持った武士の姿がありました。「いざ、鎌倉」という言葉に象徴されるように、幕府と御家人との間には強い信頼関係があり、幕府から本領を安堵され、恩賞を受けるかわりに、御家人たちは、命を張って戦いに臨みました。「鉢の木」は、そうした鎌倉武士の忠誠心を示した代表的な物語であり、心やさしき鎌倉武士を描いた物語でもあります。 ・・・・・・ある大雪の日、諸国を遍歴していた旅の僧が、上野国・佐野の渡しで行き暮れて、貧しげな民家に一夜の宿を求めました。しかし、この家の主人は貧しさのため、旅人をもてなそうにも、何もしてやることができないので、あまりに申し訳ないと一度は、その僧の願いを断りました。しかし、雪の中で難儀しているのを見捨てることもできず、結局、この僧を泊めることにしました。 主人は、客となった旅の僧に粟飯を炊き、心ばかりのもてなしをしますが、夜が更けてくると、ついには暖をとる薪さえなくなってしまい、満足に暖をとってもらうことさえできなくなってしまいました。そこで主人は、やむなく、大事に育てていた秘蔵の盆栽「梅」「松」「桜」の 鉢の木を切って囲炉裏にくべ、火を焚いて旅の僧をもてなしました。 僧はこの篤いもてなしに感動し、この主人は由緒ある人なのではないかと察し、強いて、その素性を訊ねました。「私は、佐野源左衛門常世と申す御家人のなれの果てでござる」と、素性を明かします。僧が「何故にそのようになられた」と聞くと源左衛門は、「一族の者に所領をことごとく押領されて、かくの如き身となりました。 しかしながら、落ちぶれたりといえども、鎌倉殿の御家人でござる。 もし、幕府に一大事が起こった時には、 ちぎれたりとも、具足を着け、錆びたりとも、薙刀を持ち、 痩せたりとも、あの馬に乗り、一番に鎌倉に馳せ参じ、 一命を投げ打つ所存でござる。」と、その覚悟のほどを述べました。話しを聞いていた僧は、返す言葉もなく、ただただ何度も、うなずくだけでした。その翌朝、旅の僧は、源左衛門に何度も礼をいい、また旅立っていきました。 やがて春になり、鎌倉に一大事が起こったとして、幕府から緊急の動員令が下されました。まさに「いざ鎌倉」関東八か国の御家人たちが先を争って駆けつけ、その中には、かの佐野源左衛門の姿もありました。すると、鎌倉に着いた源左衛門は、大勢の武者の中から幕府首脳の前に召し出されます。源左衛門は、ちぎれた具足に、錆びた薙刀のみすぼらしい姿をあざけり笑う武者達の前を悪びれることなく進んでいきました。すると、そこで待っていたのは、何とあの時の旅の僧だったのです。「わしは、いつぞやの大雪の日、 一夜の宿を、そちの家でやっかいになった旅の僧である。」実は、あの雪の日の旅の僧こそ、前の執権で鎌倉幕府の最高実力者・北条時頼その人であったのです。時頼は、源左衛門の言葉に偽りがなかったことを賞し、先日の約束を果たしたことを誉め、その志にむくいるため、時頼は、源左衛門が奪われたという所領を返し与えただけでなく、薪にされた三鉢の盆栽の梅・桜・松にちなんで、加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の三つの庄園を 新たに恩賞として与えました。まことに過分の待遇を受けることとなり、源左衛門は大喜びで故郷に錦を飾ることになったのでした。・・・・・・鎌倉武士の心意気、や精一杯に客をもてなす、心遣い、日本人の心の源流がそこにあるようにさえ思います。この話は、「鉢の木」という能の演目として広く知られた話で、また、栃木県佐野地方では、「鉢の木ものがたり」という民話として伝えられているそうです。佐野源左衛門は、伝説の人物であるとも言われていますが、彼が、一番に鎌倉に駆けつけると語ったその言葉は、鎌倉武士を象徴する言葉として、よく知られています。一方、旅の僧として登場してきた北条時頼は、鎌倉幕府第5代の執権。執権の権力強化を推進するとともに、その一方で、御家人や民衆に対して善政を敷いた名君として知られた人です。また、元寇の時の執権として有名な、北条時宗のお父さんでもあります。病のために執権職を譲ってから、時頼は出家して、最明寺入道と名乗り、民情を見るため諸国を巡ったと云われていて、そうした廻国伝説が各地に残っています。この「鉢の木」の物語も、そうした北条時頼の廻国伝説のひとつであると言えるでしょう。