新島襄とハンサムウーマン
「ハンサムウーマン」というのは、新島八重につけられたニックネームのようなもの。正しいと信じたことには一歩も引かない頑固さを持ち、相手が男であろうが対等に振る舞うといった、八重の男勝りな性格は、男尊女卑が当たり前という世相の中では、相当、型破りのものでありました。それ故に「烈婦」「悪妻」とも評されていた新島八重。しかし、そうした彼女を微笑ましく思い、伴侶として迎え入れたのが新島襄でありました。「彼女は決して美人ではない。しかし、生き方がハンサムなのだ。」というのは、新島襄の言葉。アメリカで長年暮らし、レディーファーストが当たり前という西洋文化を身につけていた襄にとっては、八重こそが、理想の女性であったのだろうと思われます。今回は、この日本人離れしたカップル、新島襄と妻の八重のお話についてまとめてみたいと思います。***新島襄が生まれたのは、江戸末期の天保14年(1843年)。上州安中藩(現在の群馬県安中市)の藩士の子として生まれました。襄というのは、のちの名で、本名は七五三太(しめた)といいます。17才の時、幕府が開設した軍艦操練所に入所し、そこで洋学を学びますが、その中で、聖書の存在を知り、それに魅せられたということが、彼の生涯を決定づけることになりました。キリスト教の学べる国、アメリカに行きたい。そう思い立った襄は、当時、開港地となっていた箱館へと向かい、そこから船で、アメリカに向け、密出国します。元治元年(1864年)のことでありました。上海を経由して、ボストンへ・・・。この船の中で、彼は船員たちから「ジョー」と呼ばれ、このことから、いつしか、ジョーの名を使い始めたといいます。ボストンにつくと大学に入学。やがてキリスト教の洗礼を受けました。ボストン滞在、7年目のこと、アメリカを、明治政府の岩倉使節団が訪れます。この時に知り合ったのが、明治政府の高官であった木戸孝允で、木戸が襄の語学力を大いに評価したということから、襄は、通訳として使節団に参加することとなりました。フランス・スイス・ドイツ・ロシアとヨーロッパ各地をめぐり、見聞を広めた襄は、行程の最後に報告書をまとめ、明治政府に提出しています。その後、再び、アメリカに戻った襄。神学校に入学し、本格的にキリスト教学を学びますが、しかし、この頃には、日本に戻ってキリスト教の精神に基づいた学校を作りたいと考えるようになっていました。明治7年(1874年)神学校を卒業した襄は、10年間暮らしたアメリカを離れ、日本に帰国します。そして、ここから、英学校(のちの同志社大学)の設立に向けて、積極的な活動を始めることになります。まず、英学校をどこに作るかということについて、新島家は、以前から公家の高松宮家と親交があったということから、その屋敷跡を用地として借りることが出来る目途がたち、英学校の設立する場所を、京都と定めます。次いで、資金の融資、官庁からの認可の手続きなど、種々の設立準備に追われる日々。それでも、明治8年(1875年)には、なんとか、同志社英学校を開校させることが出来ました。当初は、教員2名、生徒8名でのスタートであったといいます。一方、そうした中、襄は、京都府知事の槇村正直や顧問であった山本覚馬と懇意な仲になっていきます。そして、訪れた八重との出会い。八重を新島襄に紹介したのは、槇村知事だったということのようですが、その時のエピソードです。襄が、槇村知事のところへ英学校設立についての援助を求めに行った時のこと。どんな女性と結婚したいかという話題になりました。すると襄は、「夫が東を向けと言ったら、3年も東を向いているような女性は嫌です。」と答えます。それなら、ちょうど、うってつけの女性がいると、槇村知事が紹介したのが山本八重。この頃の八重は、女紅場(京都で作られた女学校)の指導教官を務めていて、槇村のところにも、女紅場の補助金を増やして欲しいと、度々直訴に訪れていました。槇村にすれば、自己主張の強い八重に手を焼いていたところでもあり、彼女こそ、襄の望みにぴったりの娘だと思ったのでしょう。その後、襄は覚馬の家を訪ね、八重と再会します。この時の八重は、井戸の戸板の上に腰を掛け、裁縫をしていたのですが、襄は、その大胆な振る舞いに心引かれます。板が折れてしまえば、大ケガをするだろうに・・・。その危うげな姿に魅せられたということなのかも知れません。この翌年、襄と八重は結婚することになります。一方、この頃の、同志社英学校は、キリスト教主義であるということから、京都の仏教界からの激しい反発を受けていました。仏教界は、京都府にも圧力をかけ、これが元で、同志社設立に尽力していた山本覚馬は、槇村知事と対立することになります。これにより、覚馬と八重は、京都府の職を解かれることになるのですが、それでも、覚馬は、同志社への支援を続けました。覚馬は、烏丸今出川に持っていた土地を、同志社に提供。これが、現在の同志社大学本校となり、この時に、生徒の数も35人に増えたのだといいます。覚馬の積極的な支援もあり、その後、同志社は発展を続けていくことになります。今でも、当時のままに近い姿で保存されている「旧新島邸」。ここが、襄と八重が夫婦生活を送った場所でありました。夫のことを、いつも「ジョー」と呼び捨てにし、また、夫をかしずかせていたともいう新島八重。当時は、同乗することすら、はばかられていたという人力車に乗る時も夫より先に乗りこんでいたといい、その姿を見た世間から悪妻と評され、周囲との確執も多かったのだといいます。しかし、襄はそんな八重のことを、優しく諌めながら見守っていたのだそうです。ただ、そんな2人ではあっても、その夫婦仲は至って良かったとのこと。それというのも、八重のそうした振る舞い自体、襄自身が、望んでいたものであったからなのだと思います。新島襄が亡くなったのは、明治23年(1890年)のこと。同志社の系列校を設立していく活動をしているさなかの急逝でありました。享年46才。新島襄亡き後の八重は、社会活動に生涯を捧げました。日本赤十字社に入会し、特に、病院看護の分野において、実績を残していきます。日清・日露の戦争の時には、篤志看護婦として従軍。この時には、看護婦全体の取締責任者として、怪我人の看護にあたり、また、後進の指導や看護婦の地位向上にも努めていたのだといいます。これらの功績が認められ、八重は、国から勲章をもらっていますが、これが、皇族以外の女性として、初めての叙勲となったのでありました。新島八重、昭和7年(1932年)没。享年86才。時代をさきがけていったかのような、この2人は、めげずに貫き通すことの大切さを、今に教えてくれているように思えます。