♪ 独居だと思いいしなり放埓の吉野山人一家をなせり
季節の変わり目のせいか、頭がスッキリしない。まるで霞が掛かったような、あるいは黄砂にまとわりつかれているような不快な感じ。
夜はよく眠れているはずなのに、低気圧のなかで行き場を失った雲のような、どんよりとした朝の目覚め。花粉症が無いだけましだけれど、なんとも不如意な春隣り。
何をやっても気が晴れない。昨日の天気図はそれほど悪いわけでもないが、上空の大気は不安定だったのだろう。今日は南岸低気圧が通過して、またまた1日雨の不機嫌天気。
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前登志夫の「羽化堂から」を読んでいる。NHK歌壇2003年4月号からNHK短歌2008年4月号までの5年間にわたって掲載されたものを書籍化したもの。
吉野の山家の生活をしながら、「ひだる神」(山道を歩く人や森林で働く人にとり憑く悪霊)や大峯駆けをする人、宇多の又兵衛桜、今昔物語や猪猟の名人の話などなど、山暮らしのなかでの逍遥と邂逅の日々を古今の逸話を交えながら綴っていく。
折々に詠んだ自作の歌を引きながら、それにまつわる山人(さんじん)の生活や、山にしかない体験の日々。その浮世離れした話に引き込まれている。早々に「お花見」に思いがいったのもこの吉野の話に惹かれてのこと。
前登志夫没後十年 その歌世界の紹介と作品朗読
どのページを読んでも面白く、同じ匂いをかいでいるような気分になる。都会には無いアニミズムとか自然主義とかいうようなものとは違う、もっと根源的なところでその精神性に触れる。
2003年4月~2008年4月までの5年間というと、77歳から82歳の亡くなるまでの時期にあたる。今の私で言えば、2年後から先のことになる。私が短歌を始めたのが2006年5月、NHK短歌を購読し始めたのが2008年5月からなので、完全にすれ違っていて接点がほとんどなかったことになる。
ただ、この本の中では今の私の年齢的に近く、琴線の振れる感覚や、孤独な山住みにおのれの生き方を手探りし、若き頃に自分の正体が分からず苦しんでいたことなど、私の心の中を見ているようだ。高度経済成長へ突進する世相と、時代の表層で観念的な政治闘争をつづける時流のエネルギーが日本文化の大切なものを憎み軽蔑しているのを眺めながら、谷行の仕置に遭っているという思い。それと同じようなものを、私も抱きながら苦悶していた。
放浪生活をしたり、グラフィックデザインから伝統的な絞り染めの世界に180度転換したり、社会の動きとは真逆の人生を歩み始めた自分と、同じけものの匂いがする。
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*おたまじゃくし群れゐる水にかげりつつ髪(ほの)かに過ぐる春の山人(やまびと)
*みなかみに筏を組めよましらども藤蔓をもて故郷をくくれ
*山の樹に白き花咲きをみなごの生まれ來につる、ほとぞかなしき
*いくたびか虹たつ日なれ一家族靑草原に叫びつつゐる
(歌集 縄文紀)
わたしの歌の世界はどこか現代ばなれしていると批判され、一首のなかに息づいている時間がゆっくりして、現代のテンポに合わないとも言われるという。自分ではどこか賢しらなところがやりきれないと。
50年昔に感銘し、幾たびか引用もしたという、小林秀雄「實朝(さねとも」の、「秀歌が生まれるのは、結局、自然とか歴史とかいふ僕らとは比較を絶した巨匠等との深い定からぬ『えにし』にうおる。さういう思想が古風に見えて来るに準じて、歌は命を弱めていくのではあるまいか。」今でも私はこの短歌観を大切にしているという。
手の内の見える賢しらな短歌表現の仕掛けなどに、うたのこころは在るのではあるまい。コマーシャル言語のように、刺激的で普通の意味性に今の短歌はたよりすぎているのではないか。もっと茫洋として掴みどころのない時空が欲しい。現代人はみんな迅速に解答を求めすぎるのではあるまいか。短歌の世界に解答などは無い。ゆっくりと時間が熟れてゆくだけなのだ。
確かに最近の歌は、ライブ感覚でラップでも歌っているかのような日常をそのまま切り取ったような歌が多い。歌というより散文に近い。「虚というものがあって初めて小説となる。歌もまたしかり。」といったのは車谷長吉。わざわざ短歌にするまでも無いものを語呂合わせの様に詠んで、短歌を詠っている気になっているものがあって、いささか厄介な時代になったものだと思う。
【前登志夫】 略歴(Wikipediaより)
奈良県吉野郡下市町広橋にて、1926年(大正15年)1月1日生まれる。 2008年(平成20年)4月5日)逝去(82歳)。
1955年(昭和30年)、『樹』50首で第1回角川短歌賞最終候補(安騎野志郎名義)。1958年(昭和33年)に、角川書店『短歌』四月号にて、塚本邦雄・上田三四二らと座談会「詩と批評をめぐって」に参加。1964年(昭和39年)第一歌集『子午線の繭』出版。この頃より、テレビ・新聞・雑誌等で吉野を語ることが多くなる。1974年(昭和49年)大阪の金蘭短期大学助教授に就任。1980年(昭和55年)に歌誌『ヤママユ』創刊、2006年(平成18年)に第20号を刊行。1983年(昭和58年)以降、吉野に住み家業の林業に従事しながら、同地を中心に活動を展開。アニミズム的な宇宙観・生命観を表現した短歌を詠み続けた。歌集のほかに、吉野をテーマとしたエッセイ集も多数執筆した。2005年(平成17年)、日本芸術院会員となる。
「受賞・候補歴」
1965年、『子午線の繭』で第9回現代歌人協会賞候補
1978年、『縄文記』で第12回迢空賞
1988年、『樹下集』で第3回詩歌文学館賞
1992年、『鳥獣蟲魚』で第4回斎藤茂吉短歌文学賞
1998年、『青童子』で第49回読売文学賞
2003年、『流轉』で第26回現代短歌大賞
2004年、『鳥總立』で第46回毎日芸術賞
2005年、 全業績により、第61回日本芸術院賞文芸部門、併
せて恩賜賞 |
「人が年をとる意味とは、さりげなき日常の風景のなかにほんとうの貌(かお)と出会うことかもしれない。」と彼はいう。
心に、たくさんの水脈のような襞を刻み、その襞をさまざまなものが流れたり沈潜したりしている。それらを言葉にすることは容易ではない。書くたびに内容は変り、書くほどに曖昧になって行く。自然と対峙し対話するような時にひょっこり顔を出すものがあって、沈潜していたそのものがその本当の貌なのかもしれない。
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