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NOと言える三多摩~言泉「やまと」後悔日誌

NOと言える三多摩~言泉「やまと」後悔日誌

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言泉「やまと」

言泉「やまと」

2009.11.24
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カテゴリ:後日談
二つ前の記事で取り上げた、
C)11月18日(水) 紀伊國屋書店 国分寺店
加藤聖文(2009/07)『「大日本帝国」崩壊 東アジアの1945年中公新書
を読破した。

本書は、各国の思惑が交差する国際政治の荒波の中で、日本、朝鮮、台湾、満洲、樺太、南洋群島といった諸地域(すなわち「大日本帝国」)がそれぞれ異なった事情を抱えながら敗戦を迎えた様子を、詳細に記している。というのも、この敗戦の瞬間における状況こそが、その後の諸地域の歴史を規定していく「原点」となっているからである。
近年「東アジア共同体」の構築を模索する動きが出てきているけれども、その動きが円滑に進まない理由を知りたければ、やはり「原点」を踏まえておくべきであろう。

ということで、現在の仕事や自分自身のルーツに直結するテーマとして、個人的に関心を持っていたのであるが・・・あまりに重いメッセージが含まれていて、それを受け止めて軽いめまいを覚えてしまった。
以下、私の印象に残った部分を、いくつか引用してみたい。
 戦争終末期、政府や外務省は陸軍の暴発をいかに防止するかに精神を集中し、陸軍は本土決戦を叫びつつも実際は自己の組織利益をいかに維持するかに腐心していた。戦争という外国相手の政治闘争を行っているにもかかわらず、彼らは同じ日本人相手の政治闘争に終始した結果、重大な政治判断ミスを積み重ね、大日本帝国を完璧な崩壊へと導いていった。根回しと妥協の政治ゲームへの集中とそれと表裏一体の国際感覚の欠如は、いまなお続く日本の政治風土における宿痾(しゅくあ)ともいえるが、帝国崩壊の過程でまさにその欠陥がもっともはっきりと現れたといえよう。
(第1章 東京――「帝国」解体への道 pp.54-55)
連合国すなわち戦勝国側が植民地の解放に必ずしも積極的でなかった様子などにも言及し、パワー・ポリティクスとしての国際政治の動向を描く一方で、巧みな外交を展開する各国の思惑を読み取れずに自滅していく大日本帝国の迷走ぶりをしっかりと記述している。大人の米国や中国、老獪な英国やソ連と対比してみると、日本はほとんど幼児並み・・・私がめまいを覚えたのは、まさにこうした戦前戦後の歴史に対してであった。

現在の日本に求められるのは、国際政治のパワー・ポリティクスを忌避して引きこもるのではなく、かといって正反対に(五輪を招致したがっている「あの人」のように?)覇権主義的な言動に終始してダークサイドに陥るのでもなく、パワー・ポリティクスの手法を理解しつつも何らかの信義を貫くような「第三の道」ではなかろうか。
 戦後になって、人やモノや情報の交流が国境を越えてますます盛んになっている。しかし、私たちは相変わらず一つの国の歴史という枠組みに囚(とら)われ、互いの国の歴史認識を批判し合う状態が続いている。中国で日本軍が何をしたか、朝鮮や台湾で日本がどんな植民地支配をしたのか、それらを正しく理解すれば正しい歴史認識につながるのだろうか。それよりも、同時代に日本列島や朝鮮半島や中国大陸で起きた出来事を自身の歴史として受け止める姿勢と感性が何よりも重要ではないのか。すなわち、日本人が中国や韓国や台湾の歴史を、中国人が日本や韓国や台湾の歴史を、韓国人が日本や中国や台湾の歴史を、台湾人が日本や中国や韓国の歴史を知り、自らの解釈を語り合うなかで、はじめて共通の歴史認識の可能性が開けると私は考える。
 戦後の日本人は何か大きな歴史の視座を見失ってしまったのではないか。その答えを探るために、あえて大日本帝国が崩壊した一九四五年八月一五日を直視し、その日に何が起きたのか、なぜそのようなことになったのか、その結果何が起きたのかを、いまの「日本国」の領域ではなく、当時の「大日本帝国」の領域に立ち戻って想起すべきであろう。そのなかから、八月一五日は玉音放送が流れて、戦争が終わって、新しい日本がスタートしたという、戦後に広まった日本人だけの逼塞(ひっそく)した歴史像ではない、より広く、より深く、より普遍的な歴史像が浮かび上がってくるであろう。
(終章 帝国崩壊と東アジア pp.232-233)
大きな歴史の視座を見失っているのは戦後の日本人に限らず、戦前の日本人も大同小異ではなかったか・・・というツッコミはさておくとしても、これと似たようなことは、私も2007年8月15日の段で述べたと思う。

いずれにせよ、歴史を多面的に検証しようとする地道な作業には、敬意を表したい。
本書はなかなかの力作であった、と評価しておく。



さて、前置きが長くなってしまったけれども、ここからが本題である。
3連休が明けて職場に復帰すると・・・何か風向きが変わりつつあるのを感じた。
仕事の環境が改善されてきたのか、それとも私の感覚がついに麻痺してきただけなのか。
ともあれ、今日の記事では、そうした事情について書いてみたい。

まずは、例の上司とのバトル(?)が続く、某プロジェクト
朝一番の会議で進捗状況を説明し、「こんなものでいいかどうか迷っているんですけど」と前置きをしながら、3連休の間に仕上げたモノを披露。
プロジェクトチームのメンバーから意見をもらうことにした。

やや過剰な内容であったため、「もう少し削れば」という意見が出ると予想していたが・・・全くその通りであった。

こうして、方向性を確認し、修正作業に入ることに。
できている内容を減らすだけなので、そんなに大変な作業ではない。
で、期限は、と尋ねてみると・・・上司もいろいろな案件を抱えてアップアップしているらしく、「来週の頭まででいい」となった。

続いて、午後の授業が終わってからの、担任会議
そろそろ次の外実習を考えなければならないと思っている。スケジュール的には来月17日(木)か18日(金)のあたりが好都合であるが・・・定番コースの立川防災館は毎週木曜日と第3金曜日が休館なので、さてどうしたものかと報告した。

すると・・・今日はたまたま防災訓練(火災が発生したという想定で避難と消火の体験)があり、その関係で消防署とやりとりをした先生が、「起震車が借りられないか聞いてみようか」とおっしゃってくださった。
その結果、県内にある起震車は、県が1台、入間市が1台保有していて、そのうちの入間市の1台を借りることができそう、との回答を得たのである。

瓢箪から駒。いや、防災訓練から起震車。
次の外実習の目的地は、立川防災館以外でも可能・・・というわけである。



うーむ。プロジェクトといい、担任業務といい、道が開けてきたのか?
今まで自陣を十重二十重に包囲していた敵が、突如消失していくような感じ? あるいは、濃霧で周囲が全く見えなかったのに、急に薄日が差し込んで見通しが良くなるような感じ?
とにかく、気分的に楽になったのは、確かであった。

3連休の間に頑張ったことの因果応報として、「天は自ら助くる者を助く」であったのか。それとも、とある神社に参拝する計画を立てたことで、剣の神様が困難な課題をスパッと切ってくださったのか。
まあ、何であれ、救われたことに感謝しつつも、山積している仕事をコツコツとこなしていくのみである・・・。





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Last updated  2009.11.29 22:40:40



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