|
カテゴリ:法語
- 高橋信次先生の説かれた愛とは -
キリスト教では「神は愛なり」と説かれてきた。 仏教では愛は煩悩だと説かれてきた。 仏教では愛といわずに慈悲といってきた。 キリスト教では最高至純なものとして説かれている愛が、仏教ではどうして捨離すべき執者の煩悩として説かれてきたか。 試みに竜谷大学篇の仏教大辞典の「愛」の項を見ると、 -------------------------------------------------------- 男女間の恋愛、夫婦妻子を愛する愛は、名利の愛とともに汚染愛(汚らわしい愛)である。 だから親驚上人は「愛欲の広海に沈没す」といわれた。 愛は貪慾である。 無染汚愛(汚れを知らない愛)は法を愛する愛であってこれを喜愛という。 このことを親驚上人は「一念喜愛の心をおこす」といっていられる。 -------------------------------------------------------- と書かれてある。 たしかに愛というものの中には、不倫な愛、乱れた愛、お互いの人格を低下する形の愛というものがある。 しかし、そういう愛と、親子、夫婦、兄弟、友人間の魂の至純な愛と一緒に混同して、すべてを煩悩執着の捨離すべき愛としていいのであろうか。 親子、夫婦の愛惰までも捨てなければならない、いまわしい汚らわしい愛だとして、もし世界の人類の全てが、皆救われんことを願って、親子、夫婦の関係をやめてしまったらこの地球はどうなるであろうか。 もはや人間は一人も生まれて来ないということになるから、この地球は滅亡することになる。 人間を滅亡されることが神の意志なのであったとしたら、神は最初から人間を創られなければよかったのである。 人間を夫婦愛という罪を犯すようにつくっておいて、そうして夫婦愛はいけない、夫婦愛を捨てよ、ということは全くの矛盾である。 そういう矛盾を自分でつくり出す神は、出来損ないの神であって、完全な救いの神ではないということになる。 キリスト教では「神は愛だ」といっているが、しかし、夫婦の愛は肉欲の愛だとして罪だと説いていた。 -------------------------------------------------------- 日本の古神道「古事記」の中に書かれてある神話篇の「国生みの神事」には、要約するとつぎの通り書かれている。 「神は、この世界を陽と陰とに創られた。 その陽と陰とが一体となることによって新しい生命が誕生するということにされた。 かくして天地一切のものは創造され、人は神の子として、この天地創造の原理を、夫と妻という形において実践し、人の子を生むということになった」 -------------------------------------------------------- 「人間・釈迦」第三巻、ピパリ,ヤナーの出家の章(高橋信次先生著)には、次のように書かれている。 「結婚とは何か、夫婦とは何だろう。 一対一の男女両性の機能は、この地上界においては欠かせない組み合せとなっている。 この組み合せはあらゆるものに適用され、天地一切、陰陽の機能の調和によって現象界は回転している。 結婚とは、陰陽の調和であった。 男女は、それぞれその役割と特性を有しており、両者は結婚によって、精神的、肉体的に成長してゆくものである。 男女がもし結婚という共通の場を持たず、個々に行動をすれば、人間社会は滅ぴるよりほかはないだろう。 それ故、結婚は神の意に適うものであり、結婚という共通の場がなければ仏国土はあの世だけになってしまう。 家庭がなく、夫婦生活のない社会生活などというものは、本来あり得ないではないか。 結婚が行なわれ、家庭を持つことによって、人類は、連綿とその地上に生命を受けついで行くのである。 愛というものは、男女の両性の中から芽生える。 ある男性に、女性に、魅力を感ずるというのは、自分にないものを、あるいは足りないものを相手が持っているということから始まろう。 愛というものは、こうした助け合う、補い合う、他を生かす関係から生まれ、それはやがて憐人愛、社会愛、人類愛に発展して行くのである。 それ故、愛は地上の調和にとって欠くことの出来ない神の光であり、地上の光なのである」 -------------------------------------------------------- これまでの仏教が「愛」を煩悩執着であると説いてきたことの原因は、インドの当時の釈尊のおかれた環境から生まれてきたものであったことは、今度の高橋信次先生の言葉によって明らかにされたのである。 インドの当時、釈尊が全ての愛を煩悩だと説かれたことに疑間と矛盾を持った人達が、のちに大乗時代に、男女、夫婦の愛だけを中心としたものを説き、それが密教の立川流として間違って伝えられてきたものであると思っている。 インドではタントラ仏教として、また「般若タントラ」とか「母タントラ」といわれて、性的要素と宗教的帰一との一体を説く派が生まれてきたものだと思う。 タントラ仏教は秘密仏教として真言宗に伝えられている。 それはまた「無上ヨガタントラ」として今日に至るまで伝えられている。 夫婦の愛をも煩悩としてきたこれまでの仏教も、性的要素と宗教的帰一との一体を説いてきたタントラ仏教やヨガタントラも、今回高橋信次先生が「人間釈迦」に説かれたことによって中道のあり方に帰らなければならないことになってきたのである。 -------------------------------------------------------- 「それ故に、愛は地上の調和にとって欠くことの出来ない神の光であり、地上の光なのである」 -------------------------------------------------------- という言葉によって、あなた方の胸をあたため、自らの心を神の光とされよ。 正法誌No30号より お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.02.10 18:16:01
コメント(0) | コメントを書く
[法語] カテゴリの最新記事
|