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カテゴリ:法語
釈迦が誕生される以前のインド、 また、キリストが誕生される以前の西洋には、 人間の運命は神さまが一方的に人間に与えられるのであるという考え方がありました。 このような考え方を宿命論といいます。 他力信仰はこの宿命論から生まれたのです。 病気や不幸になった人は、その病気不幸は神さまが与えられたのであるから、 神さまにご気嫌をとって今度は健康幸福を与えてもらわないといけない。 神さまにご気嫌をとるためには、沢山の供え物をしなければいけないということで、 お供えの儀式がつくられたのです。 そういうわけで他力信仰は神仏を祭る儀式が伴います。 このお供えがエスカレートして、 「神さま、私がいちばん大事にしているものをお供えしますから、 どうぞ、私の祈りを叶えて下さい」 といって、自分の大事な息子や娘を犠牲としてお供えをするということまで行われたのです。 それで釈迦もキリストも、 「運命は自分の心がつくるのである。 信仰は心のあり方を教えるものである。 神に供え物は必要はない。」 といって、自力の道を説かれたのであります。 私達はみな神の子です。 同じような力を与えられております。 神が人間に罰を与えられることはありません。 私達の心のあり方が、自己中心的で自己保存の自我が強くなると、 その程度に順って神仏の宇宙意識のエネルギーの現われ方が違ってくるし、 私達の心が安らかに調和されてくる度合によって、 神仏の心のエネルギーの現われ方が大きくなってくるのです。 いわば私達の心は、ひとつは写真機のレンズのしぼりのような働きもするわけです。 しぼりを強くしぼると(自我が強くなると)光りは少ししか入らなくなりますし、 しぼりを全開にすると(自我がなくなってくる) 光はレンズ全体から大きく入ってくることになるのと同じです。 このことを、 「神仏の心にかなわない自己中心、自己保存の自我に溺れれば、 それに比例して宇宙意識の調和のエネルギーの供給はかわってきます」 と教えてあるわけです。 心のしぼりを小さくするか、大きくするかは、神仏がされるのではなくて自分がするのです。 心のしぼりを小さくして自我意識が強くなるに順って心が暗くなり、 気が重いということになり、 するとその心の現われとして病気とか不幸が起ってくるわけです。 だから、 病気だ、不幸だという人は、 「どうして自分はこんなに運が悪いのだろう」 と嘆かないで、 「こうなった原因は心を小さく暗くしたことにあるんだ」 ということを反省して、その原因となっていた心のあり方をやめて、 心を明るく大きくすれば病気や不幸は自然に消えて (もっとも病気には適当な治療も必要ですが)健康幸福になるということになります。 ~正法誌 第35号 1981年7月号より抜粋~ 天上の光地上の愛 主エル・ランティの仏国土 主エル・ランティと大天使たちが誓った真実のユートピアとは? 新興宗教の誕生から救済までを高橋信次師の正法に学び、 師の教えを広めるべく本を出版してきた著者が、初めて挑戦した異色小説。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.08.30 09:23:04
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