たわむれアーカイブ・ラヂオ
(2004年5月18、19日付本稿を編集のうえ再掲)今も日中は営業車でラジオを聴いているのですが、もともとワタシは”ラジオっ子”です。それも、FMではなくAM派です。魅力、というと大袈裟かもしれませんが、音質もよく、BGM的に一方的に喋って曲を流す都会的雰囲気?のFMに比べて、”庶民の雑談”といった趣のあるAMラジオに、なんとも言えない親しみみたいなものを感じるのです。AMラジオとの付き合いは古く、30年ほど前に叔父からレコードとラジオが一体となったステレオを譲り受けたことに端を発します。今にして思えば、当時としてはかなりの高級品だったと思われるのですが、夜のプロ野球に土曜昼の東京六大学野球と、野球少年でもなかったクセに何故か野球中継をよく聴いていた想い出しかありませんd(^-^)小学校高学年になると、いわゆる【聴視者参加型】番組を聴くことが多くなり、そのハシりとなったのが『子ども電話相談室』。友達を家に集めて電話の前に陣取り、今日こそはムチャク先生とお話しするんだと、受付時間を過ぎると必死こいて局に電話しまくったものです。結局、一度も繋がることはありませんでしたが…w同じ頃、夜の時間帯で『夜はともだち』という番組がありました。当時、まだTBSの若手アナだった生島ヒロシ氏がメインパーソナリティで、アシスタントのおねいさん(エミコさんと言います)とリクエストを一曲ずつ出し合い、お椀の中にサイコロをふって、大きい目が出た方の曲をかけるという【ふりちんリクエスト】をはじめとする様々なコーナーがあり、ウルフマン・ジャックや伊武雅刀のナレーションで有名な『スネークマンショー』もここでやっていましたっけ。番組の提供は小学館で、今は廃刊になってしまった「GORO」という雑誌のCMを毎回やっており、「ヌード」とか「ビキニ」「水着」といった刺激的な言葉がよく流れていたのを覚えています。『夜とも』の中でワタシがもっともハマったのが『赤塚不二夫のギャグラジオ』というコーナー。赤塚氏をメインに、タモさん、所サン、高見恭子氏がレギュラーメンバーで、毎回ミニコントとネタはがきのコーナーで構成されていました。当時”はがき職人”として目覚めつつあった幼き日の私の作品も二度ほど採用されたりもしまして、その景品として「タリラリラ~ンステッカー」なるものをもらいました。たぶん、所サンが書いたと思われるメンバーの似顔絵がシールになっているものでしたが、嬉しくてノートなんかにペタペタ貼ったりしてたもので、現物は残念ながら残っておりません…。その後、中学以降は『オールナイト・ニッポン』の全盛期となるワケですが、最盛期には月(中島みゆき)・火(とんねるず)・木(ビートたけし)・土(笑福亭鶴光)と週4日聴いていた時期もありました。鶴光師匠には、明るく楽しく”性教育”をしてもらいましたwコーナーも多彩で、歌の一節を巧みに使って文章を作る「そのとき君は」や、大喜利の王道「あいうえお作文」など多士済々のコーナーがあり…そういえば、同時期にオールナイトをやってたタモさんと【なんちゃっておじさん】の元祖はどっちかと論争になったこともありましたっけ。ちなみに、今タモさんが『タモリ倶楽部』でやってる【空耳アワー】と同じことを、鶴光師匠が「オールナイト~」で【この歌はこんな風に聞こえる】というコーナー名でやっておりました。コーナーの最後に、その日採用された作品を連続してプレイバックするのですが、寄せられた作品のほとんどが”お○○こ(別名:東京4文字)”や”お○こ(同:大阪3文字)”といった女性の秘部ネタばかりになってしまって、さすがの師匠もパニくっていたことが思い出されます。たけしさんのもよく聴きました。今はすっかり”監督”が板についてしまい毒が抜けてしまった感がありますが、当時好きだったのが著名人をネタにしたコーナーで、【村田英雄】【ガッツ石松】【ジャイアント馬場】らが俎上にあげられました。村田氏がスナックで「俺のボルトを出せ」と言ったとか、馬場さんがオープンカーで移動中にいきなり”ウエスタンラリアット”と”アックスボンバー”を食らい、びっくりして振り返ると信号と歩道橋だったとか、実話ともネタともつかない(馬場さんのは明らかにネタか?w)話に大いに笑わせてもらいました。特筆すべきは、やはり中島みゆきさんですかねえ。歌の暗さとしゃべりの明るさのギャップが印象的でした。番組中さんざんはしゃいできたのに、ラストはやっぱりしんみりとした話から、みゆきさんの曲がかかる…そんなエンディングがまた、余韻を残す独特の雰囲気がありました。他にも様々なパーソナリティがいました。松山千春、所ジョージ、糸井吾郎、つぼイノリオ、長渕剛、桑田圭佑、坂崎幸之助、2部だったけど谷山浩子…あなたの『オールナイト・ニッポン』は誰ですか?ぎっちょ