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平成23年7月13日(水)
午前5時過ぎ起床。 朝のうちは新聞と音楽でした。ビーバーとテレマンをムジカ・アンティカ・ケルンで。スターデジオの番組でした。ついでにCDへコピーしました。 終日デスクワーク。退社後、運動公園へ。ランニングパンツをはいて気がつきました。靴下を忘れた。素足のまま走ろうかと思いましたが、やめました。真っ直ぐ帰宅。シャワーを浴び、早い時間に黒霧のロックを舐めました。 『神よ、アフリカに祝福を』を読んでいます。序文は辺見庸が書いています。沼沢は彼とアフリカで一緒しました。ウガンダに取材旅行した際のことです。引用します。 私とともに旅した、やはり93年の夏、沼沢均はタガヤサンの木の下やバナナ畑を背に、しばしば英語で演説をした。ウガンダはマサカ地域に拡大しつつあったエイズ孤児等に対してである。たくさんの感染者や余命幾日もない発祥患者を訪ね歩いているうちに、現地の長老等から、エイズで親を亡くした子供たちを励ましてくれるように強く請われたからである。毎日のように村人が死んでいた。私たちは打ちのめされ、参上に深く同情もしていたけれど、数日すれば村からかき消えてしまうだけの旅人が、いかに上手にスピーチをしたところで実は詮ないことであり、記事を中心に利己的に打算すれば、気恥ずかしさとそれに耐える労力は引き合わぬ話でもあった。だが、断ればトラブルが生じるかもしれない。結果、白状するけれども、私は演説役を沼沢にかなり強引に押しつけた。ごく軽い挨拶でいいんだよ、と。 彼は、しかし、日盛りに熱立ちのぼる大地に、弱々しい影のように整列している孤児らを前にして、激励の演説をのみ目的にここを訪れる私心も底意もない者がもしもいるとするのなら、彼等に少しも劣らぬ真剣さで、顔中のひげをふるふると震わせて熱弁をふるうのだった。別人のようであった。弾丸にもさして動じない彼が、激しく気息を乱している。吐く息、吸う息の、空気をこする音の一つ一つが私の鼓膜を打った。「ぼくには、君たちと同じような年頃の子供がいる」と彼はいった。「でもすごく恵まれている」と続けた。「帰ったら、君たちのことを、僕の子供たちに必ず話す」と約した。「生きること、なんとしても生き抜くことの大事さを、必ず伝える」と声をさらに強めた。幾人かの孤児らが彼を凝視したまま、目を雲母みたいにキラキラと光らせ、肩で大きく息をついた。そのとき、沼沢は記者でも伝道師でもなかった。磨き上げたように青いアフリカの空に、荒い息を吐く、ただの人であった。ただの男の真正直な息づかいが、黒い孤児たちの気息に不思議なほど自然に重なりつつあった。すごい男もいるものだ、と私は舌を巻いた。 芥川賞を受賞した辺見の名文にして、沼沢の人となりがわかります。30過ぎで飛行機事故に遭うなんて。酒を飲んで馬齢を重ねるばかりの自分。恥ずかしさを通り越して穴があったら入りたい気分です。 一方で、顔見知り程度ではあったけれど、大学で机を並べた人の中に彼のような男のいたことを誇りに思います。 今日の写真はその本です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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