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非常に適当な本と映画のページ

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2010.04.12
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カテゴリ:邦画

半落ち
映画「半落ち
この作品情報を楽天エンタメナビで見る


 横山秀夫の同名ベストセラー小説の映画化。
「半落ち」は、警察用語。
 犯人が完全に自白すれば「完落ち」、犯人が全ての情報を自白しない場合、「半落ち」となる(らしい)。


粗筋

 元刑事で警察学校教官の梶(寺尾聰)が、警察に出頭。「私は妻(原田美枝子)を殺しました」と自首してくる。
 県警刑事部の志木(柴田恭兵)が取り調べに当たる。
 自首してきたのだから真相は直ぐ明らかにされる、と当初は思われていたが、梶は妻殺害後2日間の行動については固く口を閉ざしていた。新宿の歌舞伎町を訪れていた事まではどうにか突き止められたが、そこから先が分からない。
 梶の妻はアルツハイマー病を患っていた。そんな自身の状況を憂いて「死にたい」と言うようになり、居たたまれなくなった梶が妻を殺害。
 単なる嘱託殺人では、と県警は判断する。2日間の空白は、梶は歌舞伎町など市内をさまよい、自首するべきか、妻の後を追うべきか悩んでいたのだろう、と。
 県警はその内容の「供述」を作成し、事を済ませようとする。さもないと「元警察関係者が妻を殺害した」とマスコミがいつまでも騒ぎ立てるし、妻を殺害した後イメージが必ずしも良くない歌舞伎町を訪れていたとなっては後々問題になると考えたからだ。
 しかし検察は、その供述を県警による都合のいい捏造と見なし、納得しなかった。「空白の2日間」に梶は何をやっていたのだ、と追求しようとする。
 事件は、単なる嘱託殺人から、県警と検察の面子の争いへと発展していく。
 マスコミもそれに準じて事を大きくしていく。
 事件は裁判所へと舞台を移す……。


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感想

 典型的な「シリアス」な邦画。
 組織の内輪ごとや、関係者の面子など、様々な人間模様を延々と描いている。
 複雑な人間関係を描いた小説を映画化しただけの事はある。
「そういった人間ドラマが大好き」「そういった人間ドラマを描くのが映画の醍醐味だ!」と信じて疑っていない鑑賞者なら本作を楽しめるだろう。
 しかし、自分の様に映画にテンポの良いストーリー、単純明快さ、娯楽性の追及を求める鑑賞者からすると、ただただ退屈。
 小説をベースにするのは結構だが、小説と映画は違う媒体なのだから、それを踏まえて脚本を作り上げられないのか。
 そもそも製作者が「ベストセラー小説なんだから映画化すればヒット間違いなし!」といった安易な発想しか出来ない時点でおかしいのだが。

 原作のテーマは、「空白の2日間に何があったのか?」ではなく、殺人に至るまでの心理、事件を巡っての警察や検察という組織のどろどろした内面、そして事件を取り巻く関係者の人間模様を描く事だった様である。
 本作も、原作通り、それらを全て描きたかった様だが……。
 上述した様に、小説と映画は全く異なる媒体。
 映画は、ビジュアルな媒体で、しかも上映時間が限られているが故に、小説では許されるであろう描写や展開も、馬鹿馬鹿しくなったり、現実味がなくなったり、グズグズしているだけとなったりする。
 小説として成功したテーマ、描写、展開が、映像化した際にも成功するとは限らないのだ。
 本作も、それを裏付けただけ。
 小説ではじっくりと描く事によって読者を納得(悪く言えば騙せた)展開も、じっくりと描けない映画だと鑑賞者を納得させるというか、騙すのは不可能。「演出の為の演出」「感動の押し売り」と見なされてしまうだけである。
 では、「原作と異なり、人間模様や組織の内面や犯人の心理を省き、『空白の2日間に何があったのか?』に重点を置いた展開にすれば良かったのか?」というと、そうでもない。
 何故なら、原作はあくまでも事件を巡る人間模様等を描くのを最大のテーマとしているので、「空白の2日間に何があったのか?」という謎の真相は結局大したものではないから。

 ……梶は過去に骨髄を提供していて、1人の人間の命を救っていた。通常、骨髄ドナーと患者は互いが誰なのかを知らされないのだが、梶は偶然にも断片的に元患者の居所を掴めた。梶は、空白の2日間の間に新宿の歌舞伎町で働いていたその人物を探し当て、遠巻きに見ていた。この事実が公になったら、元患者は「殺人者の骨髄を貰った人物」として世間を騒がせる事となる。そうなる事がないよう、梶は口を噤んだ……。

 この程度の真相だから、謎だけを追求したものに仕立て上げても「原作の面白さを百分の一も汲み上げていない」と非難されるだけだっただろう。
 では、どう本作を映像化していれば良かったのだ、という問題に戻ってしまうが……。
 繰り返しになってしまうが、映像化すべきでなかった小説を映像化したのがそもそもの間違い。せっかくベストセラーになって評価の高かった原作が、映像化のお陰で「失敗した映画の原作本」「映像化によってボロが暴露されてしまった小説」に成り下がってしまった。
 日本の映画制作者は、単に「ベストセラー小説だから」といった理由で映像化に踏み切るのは止めるべきだし(企画が通り難くなる事情もあるのだろうが)、小説家の方も映画制作者が「あなたの作品を映像化したいんですが」という話を持ちかけてきても安易に許可しないべきである。

 いわゆる「豪華キャスト満載」なのも、典型的な日本映画である。
 ほんの数秒しか登場しないキャラにも一目で「あ、知ってる」と分かる芸能人、もしくは俳優を使っている。
 お陰で、登場人物が無限に増えてしまい、「映画、てタレントの失業対策の為に製作されるのか?」という考えを抱いてしまう。
 ストーリーを追うより、豪華キャスト探しの為に本作を観た者もいるのでは?
 原作で登場していたからといって、映画化の際も同様に登場させなければならない理由はない。
 重複しているキャラ、登場しなくてもいいキャラを全て整理していたら、もう少しテンポのいい作品に仕上がっていただろう。

 原作は直木賞候補にもなったが、「重大な欠陥がある」と指摘され、落選。
 選考員の一人が作者や読者を侮辱するような発言を展開し、大論争になった。
 その重大な欠陥というのが、「主人公の梶は一旦自殺を思い立つものの、結局自首する。その理由とは?」
 梶は骨髄バンクに登録していて、既に一人の命を救っていた。息子が骨髄移植を受けられずに死亡した、という暗い過去を背負う梶にとって、ドナー登録は何よりも重要だった。梶は事件当時49歳。ドナー登録は、健康上の問題から、50歳で自動的に抹消される。梶は、ドナー登録が抹消される日まで、骨髄を提供できる可能性を捨てたくなかったのである。
 この点が、直木賞で欠陥とされた。
 何故なら、受刑者はたとえドナー登録していても骨髄を提供できないから。
 元刑事の梶が、その事実を知っていない訳がない。
 となると、梶が自決せずに自首する理由がなくなり、ストーリーそのものが成り立たなくなってしまう。
 ……というのが指摘された点。
 が、この指摘にも欠陥が。
 というのは、ドナー登録している受刑者が骨髄提供を求められる、という事態がこれまでなく、法的解釈が正式になされていなかったから。
 したがって、梶の様に受刑者となる者は骨髄を絶対提供出来ない、という訳ではなかったのである。
 これが出版界で大論争となり、結局直木賞の権威が失墜する。
 一方で、原作者は「直木賞決別宣言」してマスコミに取り上げられ、ベストセラー作家の地位を堅固にした。
 欠陥も使いようである。


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Last updated  2015.06.21 15:11:22
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