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テーマ:美術館・博物館(1508)
カテゴリ:美術館・博物館
『きらりの旅日記』は、2016年4月2日(土)ニューヨークを再度訪問し(MOMA)ニューヨーク近代美術館に入場したブログを書いております。スペインの個性的なヒゲを付けた「サルバドル・ダリ」の有名な絵画をご覧下さいませ(^-^)V Salvador Dali(Spanish)1904-1989 Portrait of Gala 1935 サルバドル・ダリ作『祭りの類形』1935年 2人の農民アンジェラ家の壁には、「祭りの晩鐘」が飾ってあります。 ダリは、ミレーの大ファンだったそうで、そこに農民を描いてみたのでしょうか?
Salvador Dali(Spanish)1904-1989 The Persistence of Memory 1931
1934年以降、この絵は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)のコレクションの中にありました。 不正確なタイトル『柔らかい腕時計』または『溶ける腕時計』と呼ばれた事もありましたが、
有名な部分は、柔らかい溶ける腕時計のそれが「柔らかさ」と「硬さ」の ダリの理論を集約すると・・・自己紹介的な絵画なのです。
これは、ダリにとって主要なテーマなのです。 「柔らかい腕時計」は、空間と時間の象徴で・・・ この解釈は、当時のダリが 特殊相対性理論の「アルバート・アインシュタイン」の理論に影響されたと思われます!
ダリが自分自身を代表するために いくつかの現代の部分で使った変な「怪物」で、 これは、ちょっとした自画像になっています。
彼の仕事でしばしば現れている抽象形態 数字は、「弱まっている」生きものと解釈されます。 数字・時間・限りある時間は、残りの人生の短さと!
絵の左下のオレンジ時計は、アリがついています。 それは、更に屍にアリが・・・のイメージです。
右上のごつごつした岩は、北東部カタロニアの半島の先端を表します。 ダリの絵の多くは、カタロニアでの彼の生活の景色の影響を受けました。 この絵は、記憶の持続、時間の気高さ、時間の側面を 柔らかい時計・溶ける腕時計として表現しました。
サルバドール ダリ カタルーニャ語=səɫβəˈðo dəˈɫi スペイン語=salβaˈðoɾ ðaˈli ダリ・デ・プブル侯爵 Marqués de Dalí de Púbol(es) 1904年5月11日 - 1989年1月23日 スペインの画家 シュルレアリスムの代表的な作家として知られる。 フルネームは、カタルーニャ語で サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク Salvador Domènec Felip Jacint Dalí i Domènech 「天才」と自称して憚らず、数々の奇行や逸話が知られている。
ダリは、1904年5月11日、 スペインのカタルーニャ地方フィゲーラスで、 裕福な公証人サルバドール・ダリ・イ・クシ (Salvador Dalí i Cusí)の息子として生まれた 母親フェリパ(旧姓ドメネク・フェレス)も富裕な商家出身で、 一族は自らをユダヤ系の血筋と信じている。 ダリには幼くして死んだ兄がいて、 同じ「サルバドール」という名が付けられていた。 このことは少年ダリに大きな心理的影響を与えた。
画家のラモン・ピショット(ピカソの友人でもあった)から才能を認められた。 1922年、マドリードのサンフェルナンド美術学校に入学し、 フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(詩人) ルイス・ブニュエル(映画監督)と知り合った。
1928年にシュルレアリスムの代表的映画『アンダルシアの犬』を共同制作した。 1925年、マドリードのダルマウ画廊で最初の個展を開いた。 1927年、パリに赴き、パブロ・ピカソ、トリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトンら、シュルレアリスムの中心人物たちと面識を得た。
これが後にダリの妻となるガラ・エリュアールとの出会いであった。 ダリとガラは強く惹かれ合い、1934年に結婚した。
印象派やキュビスムなどの影響も受けていたが、 シュルレアリスムに自分の進む道を見出し、 1929年に正式にシュルレアリスト・グループに参加した。 ダリは1938年にグループから除名されたが、 その理由はダリの「ファシスト的思想」が、 アンドレ・ブルトンの逆鱗に触れたからであった。 1939年には ブルトンはダリの作品が商業的になっていくのをからかって, "Avida Dollars"「ドルの亡者」というあだ名をダリに与えた。 (これはSalvador Dalíのアナグラムであり, 音声的にはフランス語"avide à dollars"「ドルをむさぼる」と同音である)。 しかしダリの人気は非常に高かったため、 グループを除名されたあとも国際シュールレアリスム展などには必ず招待された。
「偏執狂的批判的方法 (Paranoiac Critic)」と称し、 写実的描法を用いながら、 多重イメージなどを駆使して夢のような風景画を描いた。 またヨハネス・フェルメールを高く評価しており、 著書の中で、ほかの画家を採点したとき、 フェルメールに最高点をつけている。 「アトリエで仕事をするフェルメールを10分でも観察できるなら この右腕を切り落としてもいい」と述べたこともあった。
カトリックに帰依し、 ガラを聖母に見立てた宗教画を連作した。 ガラはダリのミューズであり、 支配者であり、またマネージャーであった。
戦禍を避けてアメリカ合衆国に移住したが、 1948年にスペインに帰国。 ポルト・リガトに居を定めて制作活動を行った。
「自分の人生の舵を失った」と激しく落ち込み、 ジローナのプボル城に引きこもった。 1983年5月を最後に絵画制作をやめている。 1984年には寝室でおきた火事でひどいやけどを負い、フィゲラスに移った。 1989年にフィゲラスのダリ劇場美術館に隣接するガラテアの塔で、 心不全により死去。85歳没。
【エピソード】 ダリは、1936年に制作した 『茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)』が スペイン内戦を予言したと称し、 「完全なダリ的予言の例」として文字通り自画自賛している。 ほかにも自己顕示的で奇妙な言動は多く、 講演会で潜水服を着て登壇したはいいが、 酸素供給が上手くいかずに死にかけたことがある(1936年、ロンドン)。
また「リーゼントヘア」と称して フランスパンを頭に括りつけて取材陣の前に登場するなど、 マスコミに多くのネタを提供した。 しかし、こうした人気取りとも思える一連の行為は 同時代の画家達の顰蹙も買った。 また、パブロ・ピカソら同時代の芸術家たちからも 大きな反感を買っていた独裁者フランシスコ・フランコ (ピカソには『フランコの夢と嘘』などの作品がある) を公然と支持するなど、政治的な意味での奇行もあった。
ダリの上向きにピンとはねたカイゼル髭と目を大きく見開いた顔は 「アート」そのものとして認知されるほどの人気であり、 スペインのシンクロナイズドスイミングチームが 水着の柄に採用して競技会に出場したことがある。
「これは水あめで固めているのだよ」と答えたという。
彼は旅に出るときもよくこのオセロットを連れて行った。 このオセロットといっしょに撮ったポートレイトが何枚か残っている。
本当に親しい友人の前では 非常に繊細で気の行き届いた常識人だったとされている。
つまり彼のこうした「アート」は現実世界と対峙するためのよろいのような物であり、 顕示される自己が必ずしもダリ本人そのものではないことは重要である。
若い頃、鉛筆と紙を買いに出たのに魚屋に行ってしまったとか、 地下鉄の乗り方・降り方を知らず、 友人が先に降りていってしまったとき泣き出してしまったとか、 作品を持って移動する際、 作品をひもで体にくくりつけていたといったエピソードが書かれている。
2004年はダリの生誕100年に当たり、 世界各地で展覧会が開かれた。 ダリの描いたタロットカードが存在し、今も世界中で販売されている。 ダリは自作に対し、 「ダリの作品は誰にもわからない。ダリにもわからない」とダジャレで述べている。
1926年 パン籠 1929年 大自慰者 (El gran masturbador) 1931年 記憶の固執(柔らかい時計)(La persistència de la memòria) 1930年 不可視のライオン、馬、眠る女 1933年 ミレーの≪晩鐘≫の古代学的回想 1936年 燃えるキリン 1936年 茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感) 1936年 秋の人肉食 1937年 眠り (El somni) 1937年 ナルシスの変貌 1938年 果てしない謎 (L'enigme sense fi) 1944年 目覚めの直前、柘榴のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢 1945年 パン籠(恥辱よりは死を! 1947年 ビキニの3つのスフィンクス 1950年 ポルト・リガトの聖母 1964年 蝶と葡萄の風景 1965年 "ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、 反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には 冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、 前方にひろがる空は、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、 突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである。 1969年 チュッパチャプス(商品デザイン) 1969 - 1979年 fr:Collection Clot(彫刻) 1972年 ラ・トワール・ダリグラム(ファッションや革製品のデザイン画) 1980年 宇宙象(彫刻) 1984年 時間のプロフィール(彫刻)
Pablo Pikasso(Spanish)1881-1973 Girl before a Mirror 1937 パブロ・ピカソ作『鏡の中の少女』1937年 鏡の前の少女は、 ピカソの沢山居る愛人の中の 若~い愛人「ウォルター」です。 ピカソは、罪深いと私は、感じるのであります。
そして・・・フランスの巨匠モネの晩年の作品「睡蓮」
Claude Monet(French)1840-1926 めっちゃ~巨大な睡蓮ですね~
パリ、オランジェリーと違うのは、最晩年作である事。
ジヴェルニーの庭にメガネを忘れて迷い込んだ・・・感じの睡蓮の池 最晩年のモネの目になって・・・鑑賞しましょう
Claude Monet(French)1840-1926 Agapanthus 1914-26
Claude Monet(French)1840-1926 The Japanese Footbridge c.1920-22 日本の橋は、モネのお気に入りで晩年までテーマとなりました(^-^)V
John Chamberlain(Amarican)1927-2011 Essex 1960
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最終更新日
2016.07.17 08:49:51
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