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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2020.08.07
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​ルノワールは、注文で描いた多くの作品と、妻や子どもたちを描いた作品には大きく違いがあります。それは何故!?


手書きハートピエール=オーギュスト・ルノワール手書きハート
​Pierre-Auguste Renoir​
1841年2月25日〜1919年12月3日(78歳没)


​ルノワールは・・・​手書きハート


のちに息子のジャンに打ち明けているように


子どもの頃のとても手書きハート幸せな思い出を


いつまでも忘れることがなかった。


子どもたちは・・・


彼の全作品を通じて


特別な位置を占めている。


実際、ルノワールは・・・


子どもの世界に対して注意深く


繊細かつ愛情深い眼差しを注いでおり


それは、19世紀末から、[子どもという]


人生の一時期に対して


新たな意味が与えられるようになって


いったこととも呼応していった。


ルノワールは・・・


子どもたち、ひとりひとりのなかに


あふれる可能性と生命力を備え


ただひたすら成長を望むような存在を見ていた。


彼らを表現する方法は、変化して行ったものの


それは、常にルノワールの


美的選択に相次いで生じた変化と一致するものであった。


1860年代以降、友人や顧客から


子どもたちの肖像を頼まれて描いていたルノワールだったが


彼自身が家族を持ったのは・・・


もっと後の1870年代始めのことで


息子(夭折)と娘のふたりの婚外子をもうけた。


(1880年代の終わりにルノワールが、恋人でありモデルでもあった


 リーズ・トレオ(1848年〜1992年)との間にもうけた子どもたち)。


彼の恋人でのちに妻となった


アリーヌ ・シャリゴ(1859年〜1915年)は、


最終的に3人の息子を産んだが


それはさらに何年も経ってからのことである。


ふたりの間にピエールが生まれた1885年には、


ルノワールは、すでに44歳になっており


続いてジャンが、1894年に


クロードが、1901年に誕生した。


そのためルノワールは・・・


老年に至るまで子どもたちに囲まれて過ごした。


3人は、ルノワールにとって特別なモデルとなり


彼らの姿をパステルや鉛筆、油彩で何百回となく描いている。


ジャン・ルノワールは・・・その回想録のなかで、
(1894年〜1979年)


​​​​「家族との暮らしを始めたこと」​​​


画家の制作活動にとっていかに大きな転機となったかを力説している。


「夢中になって息子をデッサンしながらも

 自分自身に対して忠実でありたいと願っていたから

 この生まれたばかりの肉体の

 ピロードのような感触を写し出すという

 単に外面的な関心を超えて

 自分の内的世界を再建し始めていたのだ」。


しかしながら、同じ肖像画でも


注文を受けて制作したものと


彼が自身のために描いたものとでは、


描き方が異なっていることも多い。


注文による肖像画では・・・


ルノワールは、好んで正方形のカンヴァスを用い


子どもは、そこに正面を向いた上半身として描かれ


その視線は、時に観者の方に向けられている。


身近な子どもたちの肖像画の中には、


愛情あふれるまなざしや、


画家が生涯を通して常に刷新し続けた


その創造性が見て取れるものもある。


ルノワールは、1885年に、


アリーヌ が長男ピエールに授乳する


愛情に満ちた親密な場面を描いているが


それは、他の肖像画に見られる


優雅な洗練とは程遠い趣を持っている。


ありふれた光景とはいえ


注文を受けて制作する場合には


考えられない情景であろう。


若い母親は、


簡素な装いで微笑みながら画家を見つめ


丸々とした赤ん坊は、


乳児によく見られる姿勢で


抱かれて夢中で乳を吸っている。


ルノワールは、この母子像をいたく気に入り


後年、亡くなった妻の顔の彫刻を制作する際にこれを再び用いて


小さな帽子をかぶり、


若々しく陽気な彼女の姿を表現した。


​​​​​​​手書きハートピエール=オーギュスト・ルノワール手書きハート
​Pierre-Auguste Renoir​
1841年2月25日〜1919年12月3日(78歳没)
Maternite ou L'Enfant au sein

(Madame Renoir et son fils Pierre)1885


​​​『母性 あるいは ​乳飲み子』​​

​(ルノワール夫人と息子ピエール)1885年​


Huile sur toile

92.0cm×72.0cm


​パリ『オルセー美術館』所蔵​


「母が絵画を愛するのは、

 いかにも永遠という感じがするときさ・・・でも

 わざと作った永遠じゃだめだよ。

 すぐ隣の街の片すみで

 毎日見られる永遠さ。[・・・]

 子どもに乳をやっている女は、

 どれもこれも、

 ラファエロの描くところの聖母だよ!」。


このような探求を物語る絵画と言えば


おそらく、ルノワールのイタリア旅行から4年後


1885年に描かれた『母性』が適当であろう上向き矢印


ラファエロの

『聖母子像』を


現代の世俗的な情景に置き換えたこの作品は、


同構図の油彩が3点存在しているが


やはり画家の日常生活の身近なところから
​​

題材を得たものである。


ポーズをとっているのは、


アリーヌ ・シャリゴ

(1859年〜1915年)という


ルノワールが、1870年代の終わりに


パリで出会った若い女性である。


ブルゴーニュ出身の控えめなお針子で


ルノワールが非常に好んで描いた


モンマルトルとその周辺に暮らす


グリゼット(女工)たちのひとりであった。


この若い娘は、

上矢印『舟遊びの昼食』以来、


彼の作品のモデルをつとめるようになる。


ルノワールとともにイタリアへ赴いた時には、


地中海の浜辺で古典風の浴女へと変身した。

『金髪の浴女』1881年


1885年3月21日、ルノワールとの間に


長男ピエールが生まれ、


ギュスターヴ・カイユボット(1848年〜1894年)が

名付け親となった。


カイユボット は、


婚外子が認められていなかったこの時代に


ルノワールのような家庭を受け入れた珍しいひとりであった。


ルノワールが『母性』に描いたのは、

母親が長男に授乳する情景であり


これを皮切りに3人の息子たちに着想を得た


家族を描く作品群が制作されるようになる。


『母性』はまた、1880年代を通して


ルノワールが画風を一新しようと


取り組んだことの証でもある。


画家は、線描やデッサンに


これまでとは違った注意を払ったが


その弱々しさは常に人々からの批判の的となった。


この作品の準備のためにルノワールは、


サンギーヌで大きなデッサンを何枚も描き


これが友人のアトリエを訪ねた

ベルト・モリゾを、感嘆させた。


光沢のない明るい彩色には、


ルノワールがイタリアでその最良のものを


鑑賞する機会を得た、フレスコ画の色調が反映されている。
(資料:S.p./s.i.さまより)


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最終更新日  2020.08.07 00:10:11
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