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カテゴリ:美術館・博物館
カンディンスキーは、1918年〜1921年の4年間にロシアで何が起こったのでしょうか、彼の作品への影響は
ロシア・サンクトペテルブルク ワリシー・カンディンスキー Vassily Kandinsky 1866年12月4日〜1944年12月13日(78歳没) ロシア出身の画家・理論家。 抽象絵画の創始者。 ドイツ・フランスでも活躍。 1917年11月、ロシア革命が起こり、 ソヴィエト政権が樹立された。 翌年1月に教育人民委員会(NKP)の下に 造形芸術・工芸芸術部(IZO)が創設されると、 カンディンスキーは、 ウラジミール・タトリン(1885年12月28日〜1953年5月31日) の招請に応じて委員に就任。 1920年12月、故国を離れるまで、 彼は革命政権下でさまざまな文化・教育行政の要職に就き、 美術大学、 美術館、 博物館、 研究所などを一から作り直す事業にたずさわることになる。 それらの仕事を共にしたのが、 構成主義の生みの親と言っていいタトリンや、 シュプレマティスムの指導者:カジミール・マレーヴィチ (1879年2月23日〜1935年5月15日)をはじめとする ロシア・アヴァンギャルドの芸術家たち・・・ カンディンスキーよりもはるかに若い、 「芸術における精神的なもの」ロシア語抄訳(1914年)から 大いに刺戟を受けたであろう時代の作家たちであった。 とはいえ、 色彩や形体の科学的な分析を重んじながらも、 形式よりも内容に、 つまりそれらの内面的な響きに 絶対的な重きをおくカンディンスキーと、 「コンポジション」ではなく感覚性・芸術性を排した 「コントラクション」へと向かう彼らのあいだには、 やがて軋轢が生じはじめる 両者の対立が表面化したのが 1920年12月、NKP統括下の美術部長を集めた 第一回汎ロシア会議においてであった。 この年、 カンディンスキーの主導の下にモスクワに 芸術文化研究所(Inkhuk)が創設されたが、 彼の発表した活動プログラムがこの会議で否定され、 カンディンスキーは間もなく研究所をさるのである その辺りのロシア情勢は 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 「ロシア・アヴァンギャルド関連年表」 1901年、ロシア社会民主革命結成。 1905年1月9日、サンクト=ペテルブルクで起こった 労働者たちの請願デモに軍隊が発砲(血の日曜日事件)。 この事件を機にロシア第一革命勃発 1914年、カンディンスキーがロシアに戻る(〜1921年)。 サラエボ事件が起こる! 第一次世界大戦勃発 1915年、マレーヴィチが無対象絵画を、 タトリンが「カウンター・レリーフ」などの構成的作品を発表。 1917年、ロシア革命勃発ソヴィエト政権樹立。 1918年、ソヴィエト憲法成立。 1920年、ウラジミール・タトリンによる 「第三インターナショナル記念塔」計画が発表される。 1920年、ロシア構成主義が台頭しはじめる。 カンディンスキー、シャガールがロシアを離れる。 レーニンが新経済政策を採用。 1922年、スターリン、ソヴィエト共産党書記長に就任。 ソヴィエト社会主義共和国連邦成立。 1923年、ウラジミール・マヤコフスキーがレフを結成。 1925年、スターリンの権力成立。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 さて、カンディンスキーは・・・ 1918年からモスクワを去る1921年までの 4年間にわずか 24点(1919年は0点)の油絵しか描いていない。 革命政府の文化政策の立案などに忙殺されたためと思われるが とはいえ、 この時期のカンディンスキーが・・・ 大きな転機に差しかかっていたのも事実である。 これまでになく暗鬱な色調におおわれた 画面の中央にさまざまな形が凝集して、 画面が二重化しはじめ、やがて それらの形のあわいにしとい空間が・・・ いわば重力から解放された自由空間が・・・ 開けていく。 形の運動の全方位的な自由が確保されるなかで、 色も形も心理的陰影を含まない軽快なものに変わっていく。 Vassily Kandinsky 『白の上に』1920年 そこには、 シュプレマティスムや構成主義の画面とも通じる 形の浮遊や、 滑空や、 旋回があるのである。 ニーナの回想「カンディンスキーとわたし」によると、 当時のモスクワの文化生活は、 惨憺たるものだったようだが、 画家は、 若い同僚たちの作品のなかに見るべきものを見、 そこから得るべきものを得ていたようである お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.12.28 00:10:10
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