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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2022.01.25
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​カンディンスキーと彼女さんはヨーロッパからアフリカへと長い旅をしますダブルハートいやいや羨ましいですね!そしてパリでマティス に!?

 
ドイツにて

​Vassily Kandinsky​
ワシリー・カンディンスキー

1866年12月4日〜1944年12月13日(78歳没)

ロシア出身の画家・理論家・美術評論家。

造形芸術における新しい表現形式の真の創造者。

『抽象絵画の創始者』

ドイツ・フランスで活躍を認められ両国の国籍を取得。


カンディンスキーのパートナーである

ガブリエーレ ・ミュンターと共に、

ヨーロッパとアフリカ・・・

特にラッパロとチュニスには、

比較的長く滞在した・・・を数年間旅行した後、


カンディンスキーは、

1906年の5月〜1907年の6月まで

パリとその周辺に滞在し、

マティス の芸術に触れたが・・・

ただその影響は受けなかった。


しかし、カンディンスキーの友人の

アレクセイ・ヤウレンスキーはすでに

1903年にマティス の作品を見ており、

その後、

1905年にパリで彼の教えを受けている。


カンディンスキーが

1908年にミュンヘンに帰った時、

ヤウレンスキーが当時の近作を

この旧友に見せた事は疑いもない。


当時のヤウレンスキーの作風は、

色彩の解放という点から見れば、

カンディンスキーが持ち帰ったどの作品よりも

「先んじて」いた。


実際、カンディンスキーは、

1934年のヤウレンスキー宛の手紙で、

彼がヤウレンスキーから

いかに多くを学んだかについて感謝している。


1904年〜1906年にかけての

ドラン、ドローネー、ヴラマンクの一連の絵は、

カンディンスキーの一部の絵に極めて近く、


そのため美術史家はとかくカンディンスキーは、

彼らの影響を受けた、と考えがちである。


しかしながら、これまでのところ、

この興味深い仮説を裏付ける有力な証拠はない!


カンディンスキーがミュンヘンに帰った時、

思想的にもまた実践上も、

抽象芸術誕生の素地はできていた。

ただ、それが

実現されるための最後の点火が必要なだけであった。


彼は、のちにその『回想録』の中で、

自分の抽象絵画誕生のいきさつについて語りながら、

ワグナーの『ローエングリン』を聞いた時の総合的な経験、

原子の分割についてのニュースに接した時の衝撃についてふれ、

また最後に、
​​
モネの『積みわら』を見て、

絵の中のいわゆる主題ないし対象は、

余計なものであることを悟ったことを記している。


​抽象絵画誕生の決定的な瞬間について、​

カンディンスキーは次のように記している。


「かつて私はミュンヘンのアトリエで、

 思いがけずも心躍る経験をした。

 夕闇が迫っていた。

 戸外でのスケッチを終え、

 絵の具箱をかかえて、

 私はちょうど帰宅したところだった。

 それまで取り組んでいた作品に

 まだ夢見るように

 のめり込んでいた私は突然、

 内的な輝きにみちた言いようもなく

 美しい絵に眼をとめた。

 一瞬たじろいだ私は、

 足早にその絵に近づいたが、

 私がそこに見たのは、

 単に形態と色彩だけで、

 その内容は私には、

 全く合点が行かなかった。

 この謎は素早くとけた。

 それは壁に横向きに立てかけられた

 私自身の絵であったのだ。

 翌日、私は日中の印象を

 反復しようと努力たが、

 半ば成功したに過ぎなかった。

 たとえその絵を横向きに置いても

 主題は私にはっきり識別できたし、

 また昨夜の夕闇の中で作られた

 薄く透明な色彩も消え失せていた。

 今や私は主題は私の絵には

 邪魔であると確信した。

 こうして負うべき責任にまつわる

 恐るべき溝が私の前に生じ、

 また様々な問題が起こってきた。

 その中でも重要なものは、

 それでは失われた主題に

 とって代わるのは何か?

 であった。」

おそらくこれは1909年のことであった。

Improvisation28(second version)1912
​『即興28』​1912年

いずれにしても1910年〜1914年にかけ

カンディンスキーは、

一連の極めてドラマティックな作品、

今日でいう「抽象絵画」を創造したが、

これは20世紀における最も重要な芸術的現象となった。


これと似た試みは当時もあったが、

それにもかかわらず、

あるいはそれゆえにカンディンスキー は、

造形芸術における新しい表現形式の

真の創造者と見なさるべきである。


いつ、どこで誰が

最初の抽象絵画を描いたかは大した問題ではない。


それは事実的な証明の問題というよりは、

定義の問題である!


同時代の他のどの試みよりも、

カンディンスキー の作品は意味において重要であり、

表現形式において力強いのである。


自然から出発して描かれた抽象絵画を

カンディンスキーは​「印象」​と名付けた。


一方​「即興」​と呼ばれたのは、

内的世界の経験と

それに伴う感動に根ざすものであった。


彼が最も重要視したのは、

一連の​「コンポジション」​で、


​『コンポジション7』​

彼はこれらに、

大作曲家が自作の交響曲にするように番号をつけた。


『コンポジション8』

こうして別格扱いされたのは10点にすぎず、

その内の7点はミュンヘンで、

1点はワイマールで、

2点はパリで描かれた。


(参考文献:Kandinsky TEXT BY HANS K.ROETHEL
   IN COLLABORATION WITH JEAN K.BENJAMINより)

(写真撮影:ほしのきらり)


『コンポジション6』

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最終更新日  2022.01.25 00:10:08
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