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カテゴリ:富士の信仰と化儀
臨終の大事(下) イギリスの人名学者フレーザーは、呪術の根本を「共感呪術」とし、更にそれを「類感呪術」と「感染呪術」の二つに分解して考察しています。 この中の「類感呪術」は「模倣(もほう)呪術」ともいわれるように、ある動作を正確に模倣擦れば、それに相応する効果があらわれるという信念――「擬(もど)き好き」にもとづく呪術であり、フレーザーは「類似は類似を生む」と表現しています。 日蓮正宗の信仰における「化儀」を考えるとき、この捉え方はよき参考になると思います。だからといって、この『もどき』は、偽物という意味ではありません。御本仏の御振る舞いを、凡夫である私たちの立場で実践することを言っているのです。 たとえば、「日蓮が如くなりたくば、日蓮が如くせさせ給へ」とあっても、私たちには直ちに、「わが身は地水火風空の五大なり…」とはできませんから、必ず御本尊を安置して題目を唱えるという三大秘法を修して、久遠の即座開悟を『もどく』ことができるのです。 数珠、その体相は、妙法五字、無作本有の当体でありますから、これを手に掛けて胸の上で合わせ、題目を唱えれば大聖人様の悟りであり御魂である御本尊と、私たちの身が即一体となって成仏の功徳を得るのです。 このことを大聖人様は、 「日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり、(中略)いかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき」(佐渡御書 全集九六〇頁) と仰せになり、 日蓮と同じ因を行ずる弟子・旦那らか、どうして日蓮と同じ境涯を得ることができないことがあろうか、必ず成仏するに違いない、と断言されているのです。 このように「化儀」とは、仏が仏になられた方法を、最も簡便な、しかも確実な、更に照準を仏法における初心の人にあわせて提示くだされた我々弟子・且那らの実践法ですから、これを単なる形式と軽んすることは、厳に慎まなければならないのです。 さて、臨終の大事の話にもどりますが、人はその死に際して、一生の出来事が走馬灯のように、瞬時に頭の中を駆け巡ると言います。まさに臨終のときは、人生の総決算のときであり、その人の生きざまが隠れもなく現れるときでもありますから、その姿もいろいろです。 四十二才のときに浄土宗をひらき、「ただ極楽往生のために南無阿弥陀仏と申せば、疑いなく往生する」として、おびただしい信者を生みだした法然は、建暦二年一月二十五日、庭まで雲集した信者たちの念仏の声の中、正午過ぎに死去しました。 『愚管抄』の中で天台宗の僧・慈円は言っています。「終に大谷という東山にて入滅してけり、それも往生往生といいなしてて、人あつまりけれど、さるたしかなる事もなし」 念仏聖の死に、何か瑞相の起こることを期待して野次馬どもが集まったが、何の変わったことも起こらなかったというのです。 (大白法378号) つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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