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カテゴリ:信心のしおり
成(じょう)仏(ぶつ)について 皆(みな)さんは、お寺(てら)に参(さん)詣(けい)して御(ご)住(じゅう)職(しょく)のお話(はなし)を聴(き)く中(なか)で、「成(じょう)仏(ぶつ)」という言(こと)葉(ば)をよく耳(みみ)にする思(おも)います。今(こん)回(かい)は、この「成仏」ということについてお話をします。 成仏の意(い)味(み) 皆さんは「成仏」という言葉の意(い)味(み)を知(し)っていますか。これは文(も)字(じ)通(どお)りに読(よ)めば「仏(ほとけ)に成(な)る」ということです。 けれども、この意味を正(ただ)しく理(り)解(かい)している人(ひと)は少(すく)ないのです。中には、人(にん)間(げん)は死(し)ねば必(かなら)ず仏に成れると考(かんが)える人や、はたまた金(きん)ピカの仏(ぶつ)像(ぞう)のような姿(すがた)になるなどと思っている人がいるかもしれません。しかし、そうではないのです。 『法(ほっ)華(け)講(こう)員(いん)の心(こころ)得(え)』には、 「仏(ぶっ)教(きょう)では、人間として真(しん)実(じつ)の幸(しあわ)せは成仏するところにあると説(と)いています。成仏とは、死(し)後(ご)の成仏のみを願ったり、人間とかけ離(はな)れた存(そん)在(ざい)になることではなく、現(げん)実(じつ)生(せい)活(かつ)のなかで私(わたし)たち自(じ)身(しん)が、仏のような理(り)想(そう)的(てき)な人(じん)格(かく)を形(けい)成(せい)し、安(あん)穏(のん)な境(きょう)地(ち)にいたることをいうのです」(法華講員の心得一〇頁(ぺーじ)) と説(せつ)明(めい)されています。 つまり大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)の説(と)かれる成仏の意味は、私たちが実(じっ)際(さい)に幸せな生活をしていくことをいうのです。 大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)の教(おし)えは即(そく)身(しん)成(じょう)仏)(ぶつ およそ私たちは、悩(なや)みや苦(くる)しみ、欲(よく)望(ぼう)などを持(も)ち合(あ)わせる人間です。それらの煩(ぼん)悩(のう)を断(た)つことなく、凡(ぼん)夫(ぷ)の姿そのままで成仏していく、幸(こう)福(ふく)になることが成仏の意味なのです。このことを大聖人様は「即(そく)身(しん)成(じょう)仏(ぶつ)」と仰(おお)せられています。 この即身成仏は、決(けつ)して何(なに)か特(とく)別(べつ)な状(じょう)況(きょう)をもたらすとか、姿や形(かたち)を変(か)えて仏に成るということではありません。判(わか)りやすく言(い)えば、御(ご)本(ほん)尊(ぞん)様(さま)を信(しん)じて手(て)を合わせ、南無妙法蓮華経と唱(とな)えれば、今(いま)の自(じ)分(ぶん)のままの姿で成仏する、幸福になれるということです。ここが大聖人様の教(おし)えの尊(とうと)いところです。 生(せい)活(かつ)の中における成仏の姿(すがた) 皆さんは日(ひ)頃(ごろ)の生活の中で、どのようなときに自分は幸福だと感(かん)じますか。「私は学(がっ)校(こう)の試(し)験(けん)で満(まん)点(てん)を取(と)ったときが幸せだ」とか、「この病(びょう)気(き)が治(なお)るならそれが一(いち)番(ばん)の幸せだ」という人もいるでしょう。たしかに、真(しん)剣(けん)に信(しん)心(じん)をしていけば勉(べん)強(きょう)もできるようになるし、病気も治るでしょう。 しかし、それだけが信心の目(もく)的(てき)ではないのです。それでは大聖人様の仏法を信(しん)仰(こう)していることにはならないのです。 成仏とは、正しい信心によって自分自(じ)身(しん)に正しい智(ち)慧(え)を具(そな)え、心(こころ)豊(ゆた)かな人間性(せい)を育(はぐく)み、人(じん)生(せい)における四(し)苦(く)八(はっ)苦(く)などの、どのような壁(かべ)にぶつかっても乗(の)り越(こ)えられる力(ちから)を持つことです。この力が具われば、私たちは自(じ)由(ゆう)自(じ)在(ざい)に生活を送(おく)ることができるようになるのです。 ただし、自由自在に生活を送るといっても、これはわがまま勝(かっ)手(て)に好(す)きなことをするということではありません。私たちが迷(まよ)いの中で転(てん)々(でん)することを留(とど)めて自由自在な慈(じ)悲(ひ)の命(いのち)へと変わり、法(ほう)界(かい)を永(えい)劫(ごう)に亘(わた)って活(かつ)動(どう)できる姿をいうのです。 御(ご)本(ほん)尊(ぞん)様(さま)の功(く)徳(どく)に浴(よく)した生活を 私たちは、大聖人様が顕(あらわ)された御本尊様の光(ひかり)に照(て)らされてこそ、自由自在な力強(づよ)い生(せい)命(めい)の境(きょう)界(がい)が得(え)られるのです。ですから、毎(まい)日(にち)の朝(ちょう)夕(せき)の勤(ごん)行(ぎょう)と唱(しょう)題(だい)を欠(か)かさず実(じっ)践(せん)し、多(おお)くの人々に大聖人様の教(おし)えを弘(ひろ)めていくことが大(たい)切(せつ)です。それらを実(じっ)行(こう)できたとき、私たち凡夫が計(はか)り知ることのできないほどの成仏という大きな功(く)徳(どく)を御本尊様より戴(いただ)くことができるのです。 『立(りっ)正(しょう)安(あん)国(こく)論(ろん)』正(しょう)義(ぎ)顕(けん)揚(よう)七百五十年の大(だい)佳(か)節(せつ)まであと二年余です。皆が御本尊様の功徳に浴(よく)した生活を送り、御(ご)命(めい)題(だい)である「地(じ)涌(ゆ)倍(ばい)増(ぞう)」と「七万五千人の大(だい)結(けっ)集(しゅう)」の達(たっ)成(せい)をめざして日々精(しょう)進(じん)してまいりましょう。 大白法・平成19年5月16日刊(第715号より転載) **************************** やっぱそうだよな! 顕正会では生活法とかいっても、どんどん世法からかけ離れていくもんな~。 顕正会員のみなさん、 『成仏とは、正しい信心によって自分自(じ)身(しん)に正しい智(ち)慧(え)を具(そな)え、心(こころ)豊(ゆた)かな人間性(せい)を育(はぐく)み、人(じん)生(せい)における四(し)苦(く)八(はっ)苦(く)などの、どのような壁(かべ)にぶつかっても乗(の)り越(こ)えられる力(ちから)を持つことです。』 \_( ・_・)ハイ ココテストニデマスヨー 顕正会では、でるわけないか(笑) 国立戒壇建立しかでませんもんね。 顕正会員のみなさん、現実を見つめてくださいね。それが仏様の教えですよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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