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顕正会 『叱狗論』

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2008年10月11日
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カテゴリ:教学 基礎講座
   経典結集


  ◇ お経とは ◇


 お経といいますと、世間一般では葬式・法事に僧侶が読むものと思われています。



 お経とは、釈尊の教えを説いた書物のことですが、「経」とはサンスクリット(梵語)の原語で「スートラ」といい、その意味は、つなぎあわせる糸ということで、「簡単な規則」を指します。




 仏教がインドから伝わってきたとき中国では、仏が説いたことを記した書物であることから、「スートラ」という語の訳語として「経」という漢字をあてました。「経」という漢字の意味は「たて糸」のことで、「すじみち」とか「ことわり」の意味です。



 経は釈尊が説いた教えを記しているとはいっても、釈尊自ら書き残したのではなく、仏の滅後弟子たちが聴聞した教えを集めて出来上がりました。




 釈尊の教えを継承する人たちは、釈尊の真意を伝えようとして「スートラ」の名をかりて、次々と新しい経を作成したため、仏教経典は分量が大変多くなりました。




  ◇ 三蔵 ◇



 仏教の聖典としては「経」のほかに「律」があります。これは釈尊の教えを奉じて生活する人たちが、守るべき規則や戒を記したものです。また後には「経」や「律」の内容を検討し、哲学的な解説や思想を説く書物もあらわれました。これを「論」といいます。



この「経」「律」「論」をあわせて三蔵といいます。




 本来、「経」は三蔵のうちの釈尊の説いた教理の部分を指しますが、中国や日本では、三蔵を一括して「経」というようになり、仏教全般を指して、「大蔵経」・「一切経」などと呼んでいます。



  ◇ 仏典の結集 ◇



 釈尊の滅後、弟子たちが集まり、教えを正しく残すために、大きな会議が開かれました。これを仏典の結集といいます。そのおもなものは、次の四つといわれています。



 第一回の会議は、釈尊入滅の年に、阿闍世王の外護のもとに摩訶陀国(まかだこく)・王舎城(おうしゃじょう)の南、畢波羅山(ひっぱらざん)の七葉窟(しちようくつ)において、五百人の僧侶が集まって、大迦葉が司会者となり、優波離(うばり)が「律」を、阿難が「法」を暗誦し、順序を整えて整理しました。




 第二回の会議は、釈尊入滅後百年のころ、毘舎離城(びしゃりじょう)において耶舎(やしゃ)を中心に七百人によって、「律」の合誦を行い、「律」を中心として結集を行い、教団の統制を図りました。このとき、教義と実践の微細な点について異論があり、教団が分裂しました。



それは、保守伝統主義的な「上座部」と、革新寛容的な「大衆部(大集会派の意)」の二つであり、上座部の僧たちが大衆部の異端邪説から教えを守るために、この会議が行われたといわれています。




 第三回の会議は、釈尊滅後二百年ごろ、阿育王の外護のもとに華氏城鶏園寺(けいじょうけいおんじ)において、目■(もくけん)連帝須(れんていしゅ)を中心に一千人が集まって行われました。この結集では、仏教教義の混濁をただすことを目的とし、ここに初めて経律論の三蔵が完成したといわれています。



 第四回の会議は、釈尊滅後四百年ごろ、迦貳色迦王(かにしかおう)の外護のもと、迦■弥羅城(かみしゅらじょう)において、世友(せう)を中心として五百人が集まり、阿毘達磨大毘婆沙論(あびだつまだいびしゃろん)の編纂をしたといわれています。




 以上のように、経典結集が進められましたが、結集の年代については、釈尊の入滅年代や時代の考証についていくつかの学説があります。



  ◇ 伝承翻訳の功労 ◇



 『守護国家論』に、



 「如来の入滅は既に二千二百余の星霜を送れり文殊・迦葉・阿難・経を結集して已後・四依の菩薩重ねて出世し論を造り経の意を申ぶ」(全集 四五ページ)



 と仰せのように、先徳のなみなみならぬ苦労によって、今日多くの経典が伝承され、仏の慈悲を身近に拝することができます。
 

『撰時抄』に、



 「総じて月支より漢土に経論をわたす人・旧訳・新訳に一百八十六人なり羅什三蔵一人を除いてはいづれの人人も■(あやま)らざるはなし」(同 二六八ページ)



 と仰せの中に、「旧訳・新訳に一百八十六人」とありますが、これはインドのサンスクリット語を中国の漢字に翻訳された新・旧の経典の訳者が百八十六人いたとされています。



 この漢訳された経典のうち、唐の玄奘(げんじょう)以前に訳されたものを旧訳といい、玄奘以後に訳されたものを新訳といいます。この旧訳とは、訳経の義意を通じることに重きが置かれているのに対して、新訳は、直訳に重点が置かれています。



 このようにお経が形を整え、仏の本意を正しく伝えるために、多くの人々の労苦がありました。なかでも法華経などの大乗経典を翻訳した羅什三蔵の功徳は実に大きいものです。



 その訳経の数は、「出三蔵記集」(しゅつさんぞうきしゅう)によると、三十五部二百九十四巻(開元釈教録)によると、七十四部三百八十四巻)にのぼり、代表的な翻訳には大品般若経・維摩経・大智度論・中論・百論・十二門論などがあります。



とくに法華経の翻訳についてはもっとも心血を注ぎ、五百人の訳経僧を指揮して訳出したといわれています。



 羅什三蔵は、仏法の所伝の正しさを証明するため次のように語ったといわれています。



 「自分は闇愚(あんぐ)であって、しかも不浄の身をもって訳経した。自分が死んだら必ず火葬せよ。もし仏法の所伝に誤りがないならば、身は焼けても必ず舌は焼けないであろう。もし舌が焼けたならば、わが訳経も捨てよ」



 と。羅什三蔵の死後遺言にしたがって火葬したところ、舌のみが焼けずに火中の青蓮華の上に遺り、五色の光を放ったと伝えられています。



 『兄弟抄』に



 「旧約の経は五千四十八巻なり、新訳の経は七千三百九十九巻なり(中略)然而(しかるに)法華経と彼の経経とを引き合せて之を見るに勝劣天地なり高下雲泥なり」(全集 一〇七九ページ)



 と仰せられていますが、多くのお経が伝承されている中で、仏の本意とする真実の教えは、法華経であることを私たちは銘記しなければなりません。


(大白法第385号)





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最終更新日  2008年10月11日 21時00分25秒
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