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テーマ:憲法議論(165)
カテゴリ:憲法
宗教学者・村上重良(むらかみ・しげよし)は次のように解説する。 《帝国憲法の起草者たちの多くは、祭政一致の国家神道をもって、日本における国教制度とは考えていなかったし、政府は、発布後も一貫して、日本には国教制度は存在しないという公式見解をとりつづけた。この立場から、帝国憲法の疑似合理性に対応する国家神道以外の宗教にたいする疑似政教分離主義が導かれ、日本の国家権力は、宗教的性格を本質としてもちながら、「反」宗教的性格と「親」宗教的性格の間を、その時々の政治上の必要から揺れ動くことになった。政府は、政教分離によって信教の自由を裏づけるという、形のうえではきわめて合理的な立場を、帝国憲法にもとづく宗教政策の基本とした。 しかし現実には、国家神道は、まぎれもない国教であり、国民の基本的自由権としての信教の自由とも、国家権力の世俗性の確立を指向する政教分離とも、本来、相いれない存在であった》(村上重良『国家神道』(岩波新書)、pp. 129-130)
《明治政府は天皇絶対化のために,神道国教化政策を展開したが,神道教義の未成熟と内外の政教分離,信教の自由論により挫折》(角川 新版 日本史辞典(角川書店)、p. 403)
否、そもそも<神道>は宗教と呼べるようなものなのだろうか、まずはそこからである。周知の通り、<神道>には教義・経典が無い。だから、布教や説法もしない。およそ宗教らしくないのである。超越的次元に属する神々に感謝し、平和安寧を祈念することは立派な宗教的行為なのだろうけれども、<神道>には、歴史伝統に根差した習俗風習的な側面も強く、とても宗教の枠に収まりきれない部分もあると言うしかないのではないだろうか。 昨日の、改正案委員会のやり取りに戻ろう。 松澤(兼)委員 我が國に於きましてはさう云ふ例はございませぬが、例へば「カトリック」黨(とう)と云ふやうな黨が出來まして、是(これ)が政治上の權力を行使すると云ふやうな場合は此の規定に該當(がいとう)しないと了解して宜(よろ)しうございますか 金森國務大臣 此(こ)の權力を行使すると云ふのは、政治上の運動をすることを直接に止めた意味ではないと思ひます、國から授けられて正式な意味に於て政治上の權力を行使してはならぬ、斯(こ)う云ふ風に思つて居ります 松澤(兼)委員 其の次には例へば第2項に於きまして「何人も、宗教上の行爲、祝典、儀式又は行事に參加することを強制されない。」と云ふ風にありますが、是は例へば所謂(いわゆる)宗教學校などに於きまして、學生生徒が監督官廳(かんちょう)の許しを得て行つて居ります宗教行事等に學生の參加を強制すると云ふやうなことは差支(さしつか)へないものと了解致しますが、如何(いかが)でございますか 金森國務大臣 此の規定は御覽の如く強制されないと云ふことになつて居ります、隨(したがっ)て今御話になりました場合、個人に對(たい)する強制になるかどうかと云ふ問題となつて解決が出來る譯(わけ)と思ひますが、恐らく左樣(さよう)な場合に於きましては入學すると云ふ時に既に其のことを了知して諒解の上で入つて居ると思ひますから、左樣な場合には強制と云ふことは起り得ないと考へて居ります お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.03.30 21:00:07
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