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テーマ:憲法議論(165)
カテゴリ:憲法
《このようなプログラム規定説は、もともと、ドイツのワイマール憲法下の「生存権」に関する解釈学説として登場したものであり、ドイツにおいて通説的地位を占めてきたところから、日本国憲法下においていち早く「輸入」され、当然のごとくに学説を支配してきた。しかし、そもそもワイマール憲法には、日本国憲法25条のように国民の「権利」として「生存権」を保障する規定があったわけではない。そこで議論の対象となったのは、 「経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合しなければならない」(151条1項) とする規定であった。ここでいう「人間に値する生活の保障」は、個人の権利としての保障ではなく、立法ないし国政の指針としての意味合いにおいて語られていると読むのが、自然であろう。だからこそ、ワイマール憲法における「人間に値する生活の保障」(=「生存権」)は、具体的権利ではなく「プログラム」だと解されたのである。しかも、このワイマール憲法151条1項に関してさえ、当時、そこにいう「人間に値する生活の保障」ということが法の解釈基準として裁判規範性をもつ、とする説も有力に主張されていたのである。 つまり、ワイマール憲法のもとでも、「プログラム規定説」が唯一論理的に成り立つ解釈であったわけではないのである》(浦部法穂『全訂 憲法学教室』(日本評論社)、p. 224) 斜に構えた憲法学者は、こうも読めると独自の解釈を開陳したがるものである。そして、およそあらゆるものの解釈は1つとは限らないことからして、ワイマール憲法151条1項も「プログラム規定説」以外の解釈もあったに違いない。が、「プログラム規定説」が通説だったのはおそらく間違いない。 《その「プログラム規定説」を、「すべて国民は、……権利を有する」として明確に「権利」を保障した日本国憲法25条の解釈にもち込むのは、明らかにおかしいというべきである》(同、pp. 224-225) <明らかにおかしい>とは明らかに言い過ぎだろう。だから、浦部氏は、<明らかにおかしいというべきである>と逃げを打った言い方をしているのだ。 ワイマール憲法の「人間に値する生活の保障」と日本国憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」は、<明らかにおかしい>と浦部氏が言うほどの意味の違いがあるようには、少なくとも私には思われないのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.04.23 21:00:07
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