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テーマ:憲法議論(165)
カテゴリ:憲法
われわれは、第1草・第2章の對立矛盾に目を向け、この對立矛盾を解消することによつて、日本の國防上の權利(第2章)を、民族目的(第1章)に限局させようと努め、その上で眞の自立の平和主義を、はじめて追求しうるのである。從つて、第1章の國體明示の改正なしに、第2章のみの改正に手をつけることは、國家百年の大計を誤るものであり、第1章改正と第2章改正は、あくまで相互のバランスの上にあることを忘れてはならない。(「問題提起(日本國憲法)」:『三島由紀夫全集34』(新潮社)、p. 318) 第1章の皇室伝統の卑小化、そして国民を僭称する「列島人」の自意識の肥大化によって、天皇と国民の紐帯(ちゅうたい)は弱まり、日本国への忠誠は見失われてしまった。代わって、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。自分たちの安全と生存を<平和を愛する諸国民の公正と信義>に委ねるなど、私に言わせれば「阿呆の極み」でしかない。 が、一転、憲法を改正し、集団的自衛を可能にするという話が出て来た。それは、平和を愛する諸国民の公正と信義が信頼に値しないということを認めたということである。昔から平和を愛さない諸国民は存在したが、これまでずっと目と瞑ってきただけである。最早(もはや)、目を瞑ってはおれなくなってしまっただけである。 だから憲法第9条を改正しようということなのである。が、一体我々は何を守ろうとしているのか。戦前、我々は國體(こくたい)を護持せんと戦った。が、戦後、これは否定された。戦うことが否定された(第9条)のは勿論であるが、国民統合の象徴たる天皇よりも上位に「国民の総意」があることが宣言された(第1条)。その「国民」は個人として尊重されるとされている(第13条)。 もしかりに、一步妥協して、不十分ながら第1章が日本の「國」とは何ぞやといふことを規定してゐるとしても、第2章は明らかに、國家超克の人類的理想について述べてゐる。第1章が「國のため」といふ理念を一應(いちおう)揭げてゐると假定(かてい)しても、第2章が掲げてゐるのは「人類のため」といふ理念である。 國民の側から云へば、忠誠對象(たいしょう)の不分明であり、國家の側から云へば、國家意志の不明確である。これらの茫漠(ぼうばく)たる規定から演繹(えんえき)される國家最高の理念とは、人命尊重のヒューマニズムである。 平時はそれでよいが、ひとたび危機に際會(さいかい)すると、1970年春のハイジャック事件のやうに、韓國、北鮮がそれぞれ明白に國家意志を表明したのに、ひとり日本は、人命尊重のヒューマニズム以上のものを表明することができず、しかもこのヒューマニズムには存分に偽善が塗り込められるといふ醜態をさらしたのである。(同、pp. 319-320) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.04.29 21:00:07
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