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照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2023.01.07
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カテゴリ:歴史

前回の講演で、歴史とは現在の歴史家と過去の事実との間の相互作用の過程である、対話である、と私は申しました。今度は、この方程式の両側における個人的要素と社会的要素との比重を研究しようと考えます。歴史家はどこまで単独の個人なのでしょうか。そして、どこまで自分の社会および時代の産物なのでしょうか。(E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)清水幾太郎訳、p. 47)

 さて、E・H・カーをマルキストと言ってよいかどうかは意見の分かれるところだろうが、マルクスに少なからず共鳴していることだけは確かだろう。

かつてマルクスが申しましたように、教育者自身が教育されねばならぬ、ということをお忘れにならないで下さい。今日の方言で申しますと、洗脳者の脳そのものを洗わねばならぬ、ということになります。歴史家は、歴史を書き始める前に歴史の産物なのです。(同、pp. 54f

 これは、1845年にマルクスが書いたメモ「フォイエルバッハに関するテーゼ」の第3テーゼである。

《人間は環境と教育の所産であり、したがって人間の変化は環境の相違と教育の変化との所産であるという唯物論的学説は、まさに人間が環境を変えるのであり、また教育者自身が教育されなければならない、ということを忘れている。したがってこの学説は、必然的に、社会を2つの部分にわけ、そのうちの1つは社会よりも優越しているとするようになる(例えばロバート・オーウェンのばあい)。
 環境の変更と人間の活動との合致は、ただ変革的実践としてのみ、把握されかつ合理的に理解される》(エンゲルス『フォイエルバッハ論』(岩波文庫)松村一人訳、p. 87)

 さらに、このテーゼは、次のような認識が元となっている。

《フォイエルバッハは、存在が意識を決定するのであって意識が存在を決定するのではない、と宣言することによって、観念論者の立場をひっくり返すことにとどめた。マルクスは、唯物論の基本的原理の別個の、もっと微妙な定式化の方を選んだ。「人間の意識が人間の存在を決定するのではなくて、人間の社会的存在が人間の意識を決定するのである」》(E・H・カー『カール・マルクス』(未来社)石神良平訳、p. 103

 詰まり、カーが<歴史家は、歴史を書き始める前に歴史の産物>だと言っているのは、歴史が歴史家の意識を決定するのであって、歴史家が歴史を決定するのではない>という認識なのである。

 が、歴史とは歴史家が過去の出来事を解釈した物語なのであって、歴史家によって歴史は異なる。詰まり、歴史は複数存在する。もし歴史が1つしかないのであれば、歴史が歴史家の意識を決定すると言えるのかもしれないが、歴史の決定版が存在するわけでもなく、歴史が歴史家の意識を決定することなど出来ないのである。





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Last updated  2023.01.12 09:44:36
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