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照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2023.01.09
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カテゴリ:歴史

To draw attention to these reversals of outlook is not an unfriendly criticism. It is not my purpose to refute the proto-Butterfield with the deutero-Butterfield, or to confront Professor Butterfield drunk with Professor Butterfield sober. I am fully aware that, if anyone took the trouble to peruse some of the things I wrote before, during, and after the war, he would have no difficulty at all in convincing me of contradictions and inconsistencies at least as glaring as any I have detected in others. Indeed, I am not sure that I should envy any historian who could honestly claim to have lived through the earthshaking events of the past fifty years without some radical modifications of his outlook. – E. H. Carr, What is History?, 2. Society and the individual

(このように見解が逆転したことに注目するからといって、敵意をもって批判したいわけではありません。第1のバターフィールドの著作を第2のバターフィールドの著作で反証すること、あるいは、酔ったバターフィールド教授と素面(しらふ)のバターフィールド教授を対峙(たいじ)させることが私の目的でもありません。もし誰かが、私が戦前、戦中、戦後に書いたものの内の幾つか詳細に調べたならば、少なくとも私が他の人に気付いたものに劣らず、明白な矛盾や不整合があることをあっさり納得するであろうことは十分に承知しています。実際、私は、過去50年間の激動の出来事を、自分の見解を何ら根本的に変更せず生きてきたと正直に言える歴史家がいたとしても羨(うらや)ましいとは思いません)―E・H・カー『歴史とは何か』2. 社会と個人

My purpose is merely to show how closely the work of the historian mirrors the society in which he works. It is not merely the events that are in flux. The historian himself is in flux. When you take up a historical work, it is not enough to look for the author's name on the title-page: look also for the date of publication or writing -- it is sometimes even more revealing. If the philosopher is right in telling us that we cannot step into the same river twice, it is perhaps equally true, and for the same reason, that two books cannot be written by the same historian. – Ibid.

(私の目的は、歴史家の仕事が、如何に詳しくに彼が活動する社会を映し出すかを示すことだけです。流動的なのは独り出来事だけではありません。歴史家自身が流動的なのです。歴史の著作を手に取るとき、本扉(ほんとびら)の著者名を探しても十分ではありません。刊行や執筆の年月日も探すべきで、その方がさらにもっと示唆に富むことがあるのです。哲学者が「同じ川に二度足を踏み入れることはできない」と言ったのが正しいとすれば、2冊の本が同じ歴史家によって書かれることは有り得ないことは、恐らく同様に確かなことでしょうし、理由も同じです)― 同

 時が変われば、状況も変わる。環境に存在を依存する人間もまたこの変化の影響を免れない。だとすれば、歴史家の認識が変化しても仕方のないことだ、とカーは言うわけである。
 が、これは体(てい)の良い言い訳に過ぎないと思う。歴史家の著作に変化があったとしても、果たしてそれは時代や環境の変化によるものなのか。勿論、そういう側面があることを否定するわけではないが、歴史家自身の成長の問題もまた大きい要因だと思われる。
 齢(よわい)を重ね、経験修養を積む中で、歴史家自身が見えていなかったことが見えるようになったからこそ心境に変化が生じ、執筆内容が変化したということなのではないか。

《子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従ひて矩(のり)を踰えず(こえず)》(『論語』為政第二)

(孔子先生はおっしゃいました。「私は十五歳のときに学問を志し始めました。三十歳にして独り立ちをし、四十歳で迷うことがなくなりました。五十歳のときに天命を理解し、六十歳のときに人の意見を素直に聞けるようになりました。七十歳の時にやっと自分の思うままに行動をしても人の道を踏み外すことがなくなりました。」と)






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Last updated  2023.01.09 21:00:09
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