|
テーマ:ニュース(100070)
カテゴリ:歴史とか民俗とか
奈良県御所市で、橿原考古学研究所の調査で5世紀前半の建物跡が確認され、「極楽寺ヒビキ遺跡」と名付けられた。橿考研では、葛城氏の祭祀や政務の拠点とみている。火災跡もあり、雄略天皇に攻められた痕跡との見方も出ている。
この時代の天皇は、実在の可能性が高い一方、それらを検証する物証は乏しいらしい。 日本書紀、古事記は、ハッキリと、この時代の皇位争いの激しさを記していて、 また、この辺の系譜も、色々と想像できる。 個人的に気になるのは、この極楽寺ヒビキ遺跡の後、葛城氏が復活した時の、葛城氏の統率者で、女性の有力者「飯豊天皇」とも呼ばれた忍海飯豊青尊が力を持っていた。22代清寧天皇の時、後の双子の天皇、23代の顕宗天皇(弟)、その次の仁賢天皇(兄)とが、播磨国の縮見(今の三木市志染)に隠れ、それを管轄していた忍海造細目により保護され、激闘が終結した都へ皇位継承者として迎えられるくだり。 日本書紀では、「飯豊天皇」は、清寧天皇の死後、双子の弘計(オケ)と、億計(ヲヶ)が、皇位を譲り合ったので、その間、天皇の代理として忍海角刺宮で執政し、その後、顕宗が近飛鳥八釣宮で執政したとある。今も残る忍海も、近飛鳥も葛城山系なので、あの明日香村は、遠つ飛鳥なのを思えば、ヤマトの王権は長い間、葛城氏を中心に展開していたのかと思う。 双子の天皇は、顕宗天皇と仁賢天皇だけ。 双子の皇子、オケとヲケの名は、 大碓(オオウス)と小碓(ヲウス、後のヤマトタケル)の双子の皇子を思い浮かべる。 播磨国風土記では、ともに東播磨南部で幼少期を過ごした事になっている。 ヤマトタケルは、常陸国風土記では「天皇」と記されているらしいし、その子の仲哀天皇 オオウスも、ヤマトタケルも、後に尾張周辺に拠点を置くのも面白い。 景行天皇は、畿内を囲む勢力との繋がりを強化したというより、その連合の盟主としてヤマトに入ったのかも。 後の、継体天皇も、 播磨国風土記では、ヤマトタケルらの父、景行天皇が印南別嬢(紀では、播磨稲日大郎姫)を妻にする為、播磨にやってくる時に、摂津国の高瀬(今の守口市辺り)で淀川を渡ろうとするが、渡し守(この船頭は紀伊国の人となっている)が、「私は天皇の贄人ではないから」と拒み、対価を払えば船に乗せるという。 一介の水夫が天皇に「渡し賃を払え」と言うのは、後の水軍の時代まで、比較的自由に船乗りたちが生きていた(朝廷側から見ると海賊だが)のと繋がるのか、 それとも、景行天皇は、畿内での争いに敗れ、逃げ延びようとしたのか、 それとも、元々、大和や摂津、河内などの出自ではないのか・・ なぜ、摂津内陸部に紀伊国(和歌山側か、それとも熊野方面か分らないが)の船人がいるのだろう? 住吉とか摂津河内あたりの権力者の許しは得ていたのだろうか? そして、播磨風土記には、いちいち、他国での事や、他国から来た人のことを、アレコレ書いている事が多いが、他国の風土記はどうなのだろう? いずれにしても、説話なので、そのまま信じられないけど、技術の進歩で、各地の遺跡や出土品の検証が進めば、時代設定の齟齬などが分るのだろう。その研究の変遷も、私達が恣意的に勘違いして古代へのロマンを地域振興に結び付けたりするのも、 これまた、歴史の一頁、一文、あるいは行間として、後世に伝わることもあるのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年03月22日 06時26分26秒
コメント(0) | コメントを書く
[歴史とか民俗とか] カテゴリの最新記事
|