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カテゴリ:日本民俗・宗教哲学
高層神殿について興味がわきましたでしょうか?
そこで、今回はブレイクタイム 慶次が数年前に参加した進歩時有無なんぞから おもしろい部分を紹介したいと思います もともとは大社内に地下祭礼準備室の建設計画が持ち上がり、 準備をはじめたところ、驚くべき発見がなされます その後、平成11年9月に発掘調査がはじまり、翌年の4月に宇豆柱が、 9月には別の二組の柱が出土します いずれも、三本の杉の木を抱き合わせた形で発見されました 一本の柱の太さが現在出雲大社で使われている柱の断面積の 約五倍で、本殿の床面積は現在のより少し大きい程度ですから、 巨大な柱であったことは間違いありません 本殿中心部を支える心御柱からは、柱穴を掘った後に、なにかしら の儀式をしたことが伺えました、なぜわかったのかというと、石が 綺麗に敷き並べられて、舞台のようなものが発見されたのです これは心御柱からのみ発見され、宇豆柱からは発見されませんでした しかし、宇豆柱からのみ発見された祭事の痕跡もありました 二本の釿(ちょうな)が埋納されていたのです 釿は大工道具の象徴的なもので、年頭に作業をはじめる際の儀式が 「釿始」とされることからも、その象徴性が感じられます 文献では造営工程の要所ごとに神事・儀式をおこなったとあります が、発掘調査では、それを裏付けることはできていません これは、神事が特別なモノをつくっておこなったりしたのではなく 舞や丁重なる儀式がメインだったからではないかと思われます さて、ここから少し科学的な話になってきます、なるべく簡潔に おもしろく書きますので、我慢してくだされ ここで出土したふっとい柱に年号でも記してあれば、いつの時代の ものかわかるのですが、何も書いてない・・・そこで、まず簡単な 年代測定をおこないました、それにより11世紀後半~13世紀という 幅広い年代がわかりました、さらに宇豆柱内から土器が出土し、これ により12世紀後半~13世紀としぼり込めました さらにさらに、年輪や、放射性炭素から測定もしました 出雲大社においては平安時代中期以降の造営記録が残っています この文献記録と、年代測定を照らし合わせると、今回出土した柱は 鎌倉時代の宝治二(1248)年に遷宮されたものである可能性が極めて 高いことがわかりました 年輪による年代測定法は資料は限られますが、かなり信頼がもてる 方法です この測定法により、心御柱の柱下から出土した板材のもっとも外側の 年輪が1227年に形成されたことがわかりました 1227年の木を1000年とか900年とかに伐ることはできませんから、 この本殿遺構は1227年より新しいものだということになります 次に造営記録と重ね合わせます 嘉禄元年(1225)年の倒壊後の造営と一致してきます 宝治の造営からさかのぼること200年の間に、記録によれば五回の 倒壊があったとされ、平安期は倒壊しては造り、倒壊しては高層 神殿を造りを繰り返していたと思われます しかし、この宝治の本殿も文永八(1271)年に火事で消失し、その後、 中世においては本殿規模は急激に縮小します これについて、井上寛司氏がおもしろい仮説をたてています 興味があればご自分で探して読んでください(疲れた) 簡潔な内容でよければ、書きますが・・・・ぶっ またいつか、ブレイクタイムと称して、大社について書きましょう 疑問や突込みがあれば、コメント欄にどんどん書き込んでください 実際、書きたいことの1/10も書けませんでした(疲れたし~) 一 夢 庵 風 流 日 記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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