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テーマ:ニュース(99709)
カテゴリ:経済問題・貧困問題
京都で生存権を求めるデモ 「たまにはウナギも食べたいぞ」
「生存権を求める京都デモ」が1日、京都市であった。生活保護の利用者と支援者100人が路上から訴えた。「たまには旅行に行きたいぞ」「たまにはオシャレもしたいぞ」「たまにはウナギも食べたいぞ」 憲法25条は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障するよう政府に命じている。その政府は生活保護費を大きく削っている。京都では、生活保護を使いながら地域で自立生活をしている障害者が「生活保護改悪に反対する人々の会」(小松満雄代表)をつくり、「全京都生活と健康を守る会連合会」とともに政府を相手に裁判中だ。 「人々の会」がさらに重大視しているのが「バッシング報道」の後遺症だ。政府による削減方針とおなじころさかんに報じられたのが芸能人の家族の「不正受給」で、実際は不正はなく生活保護への偏見と差別をあおっただけだった。 そうした報道のせいで生活保護制度はとても使いづらいものへとおとしめられたと「人々の会」は怒っている。対抗手段として2019年にはじめたのが「生存権デモ」で、この日も先頭集団をあるいた。(以下略) --- このデモをめぐっては、各方面から様々な意見が出ているようです。というか、例によってネット上ではバッシングする意見があふれかえっているようです。 良し悪しとか「べき」論を度外視して現実論を言えば、今の日本のこの現実、生活保護叩きが跋扈している状況のなかで、私自身がもしもこのデモに参加していたとしたら、「たまには旅行に行きたいぞ」「たまにはオシャレもしたいぞ」「たまにはウナギも食べたいぞ」は言わないかな、と思います。ただでさえ生保バッシングで満ち溢れているのに、火に油を注ぐことになるのは明らかですから。 と、言わざるを得ないのが今の日本の現実です、残念ながら。 出る杭は打たれる、声高に主張する者は、とりわけ弱者の立場から声高に主張する者は、寄ってたかって袋叩きにされるのがこの国の現状です。 賛否とか、それが実現できるかどうかはともかくとして、「旅行」「おしゃれ」「ウナギ」は、人間の欲望として、少なくとも道を踏み外したものではまったくありません。だって、わたしも旅行は好きだし、ウナギも好きですから(ただし、ウナギは絶滅危惧種なので、最近は食べないようにしています)。男だからおしゃれにはそれほど興味はないですけどね。 世の大半の人は、その程度のささやかな願望は持っているはずです。ならば生活保護受給者が同様の願望を持っていたとして、なにもおかしくはありません。 もちろん、それが権利として保証できるかどうかは別の問題です。願望がすべて認められる、というわけにはいきません。私も「旅行」「おしゃれ」「ウナギ」という願望をすべて実現すべきだ、とは思いません。 でも、そのような主張を掲げること自体がおかしい、異常だ、反社会的だ、などということは、まったくありません。 「旅行」「おしゃれ」「ウナギ」と具体例を書いてしまうと、共感を得にくくなってしまう傾向は否めないものの、一般論として言えば、生活保護の根拠である憲法第25条の生存権は「健康で文化的な最低限度の生活」を保障と書いてあります。一切何の娯楽も余裕もなく、餓死せずにギリギリ命をつなぐだけ、というのが生存権の趣旨ではありません。 正直なところを言えば、かつて、十数年前に知人から保護基準(最低生活費)の金額のいろいろなパターンを教えてもらった時、多人数世帯の最低生活費は「なんでこんなに高いの?」と思ったことがあることは事実です。母子加算なんかも、個人的には、思うところがないわけではありません。 しかし、現実に生活保護世帯の大半を占める高齢単身世帯の最低生活費が「高い」とは思えないのです。 元々がそうでしたが、それ以降保護基準はどんどん引き下げられています。かつて私が「高い」と感じた多人数世帯の保護基準は、その後大幅に引き下げられていますし、元々高いとは思えない単身世帯の保護基準も引き下げられています。 それなのに、急激に物価上昇しつつある今、単身世帯の保護基準ですら、引き上げとはなっていません。「旅行」「おしゃれ」「ウナギ」などという表現の問題ではなく、そのことに対して、受給者が不満を抱くのは、おかしなことではありません。 にもかかわらず、そのような主張をすること自体を許さないような社会状況が、この国をよい方向に導くことは決してないと言わざるを得ません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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