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(その3)の続き。
「被爆太郎の誕生」 (p166)被爆体験がいつわって語られることと、その人が被爆したこととの関係を考えただけではなく、被爆体験がいつわって語られることと、その人が被爆しなかったこととの関係を、考えました。 (p166)いまはもう明らかです。 (p166)吉野さんの養母(叔母)と義妹は小倉市にいます。ふたりの妹さんたちの居場所も判っています。東京の近県にはお兄さんがいます。 これらの人々、とくにお兄さんを訪ねれば、吉野さんが生まれて以来のことが、もっとも確実に判るでしょう。1945年8月9日、吉野さんと両親が、どこにいたか、吉野さんの両親の死と、その日長崎で起こった出来事の間にかかわりがあるかないか、話してもらうことが出来るでしょう。 (p166)私は何ヶ月も、一年以上も考えました。 結局、それはしないことにしました。 自分のその行為が、人伝てに吉野さんの耳に入って、吉野さんの精神状態の均衡に危険を与える可能性を、私はまず怖れました。 (p166)かつて「戸籍謄本をとりよせてはみてはどうか」と提案した時吉野さんが示した、あの跳びあがらんばかりの怒りが私には忘れられません。提案しただけであれほどの反応を示した吉野さんが、私の行為を知り、吉野さんのほんとうの身の上や、吉野さんの被爆体験の虚構に私が気付いたらしいことを知ったら、どれだけ感情をたかぶらせるでしょうか。 (p168)それらの人々を訪ねてはゆくまい、と決めたもう一つの理由、最も大きな理由は、今度こそ私には、もうそんなことをする権利がない、目的がない、名分がない、と考えたからでした。 吉野さんの場合だけはタブーを破り、被爆者の話の内容に一歩踏み込んで、その「真実」性を私が検証しようとしたのはなぜでしょうか。いうまでもなく、吉野さんの話に深く心をゆり動かされ、将来、この話を沢山の人々にきいてもらいたい、自分の気持ちを多数の人々のものにしてほしい、と考えたからにほかありません。 そのためにも、この話が、その内容のの大筋においては正真の事実であるという確信を持ちたい。そのための傍証を得たい。それが私の行為の目的でした。 結果は出ました。 「傍証はすこしも得られなかった。この話が正真の事実であるという確信はまったく持ち得ない。」 これが結論です。 これ以上、タブーの中にもう一歩踏み込む理由は自分にはもうない。私はそう考えました。私はもう、充分に、吉野さんの「過去を暴いて」しまいました。知る権利のないことを知ってしまいました。被爆とはなんの関係もない人々の個人生活まで覗き込む失礼をおかしてしまいました。 (p172)その吉野さんが、私に語った、あの「幻」を作り出していく過程を空想してみました。 吉野さんは----長崎医大付属病院ではないかもしれませんか----どこかの病院に、長いこと入院していた人かもしれません。そうして別の被爆者、場合によっては複数の被爆者たちと、何年ものあいだ、隣り合わせのベッドに寝ていたのかもしれません。 そのような経験が、なんどか繰り返されたのかも知れません。 二年も三年も、隣り合わせのベッドで寝ていた被爆者が、亡くなっていくようなことを経験したかもしれません。 その人に、やさしい、被爆者の「姉さん」がいたことを私は空想してみました。 その「姉さん」が、吉野さんを可愛がってくれたことを空想してみました。 その「姉さん」が、亡くなったことを空想してみました。 それからまた、同室していた被爆者達が、繰り返し繰り返し、それぞれの身の上を語り合ったと私は空想してみました。人の体験と、自分の体験との区別がつかなくなるほどに。 (p173)その過程で、不必要な部分はいつのまにか削り落とされ、必要な部分は事実をいっそう鋭く伝えるように作り変えられ、複数の人間の体験がひとりの人間の体験に凝縮され、しだいしだいに一個の「被爆太郎の話」が出来上がっていく過程を空想してみました。 「被爆太郎」は人間と原子爆弾との関係を、もっとも鋭く表現した存在として誕生します。 ありえないことですが、かりに原子爆弾が、人類がまだ文字を持たない時代に投下されたとしても、そして代々の権力者が、このような体験が記憶され、伝承されることを望まなかったとしても、それは人々の脳裏に深く刻まれ、口から口へ。祖父母の口から子供達や孫達へ、孫達からそのまた子や孫たちというふうに幾世代ののちまでも、必ず、伝えられていったに違いありません。 被爆体験とはそのような体験でした。 (p174)このような口伝えの被爆体験は、それが幾世代にもわたって語り伝えられるあいだに、数え切れぬ、「被爆民話」を生み出したに違いありません。 「恐ろしい話」「悲しい話」「不思議な話」「ちょっとの偶然が運命を左右した話」「日ごろのよい行いが報われて生命が助かった話」「亡くなったお母さんが、娘の嫁入りの晩、箪笥を届けて来た話」「救護所の遺体の金歯を、夜毎ペンチで引き抜いてまわっていた鬼のような男の話」「野犬に食べられた赤ちゃんの話」「自分の身を棄てて、弟を守り抜いた気高い姉の話」「死んだ息子が観音様になって母親の夢枕にたち、人間の生き方を諭した話」「焼け死んだ美しい娘が夏の夜蛾になって、恋人の部屋を訪れた話」、こんな話がかぎりなく、生み出されたでしょう。 そこには軍人、高官、母親、兵士、中学生、大工、看護婦、機関士、娘、産婆、先生、泥棒、警察官、修道女、商人、農民、情深い人、強欲な人、およそありとあらゆる人々が登場してきたでしょう。 そのような「被爆太郎」の原型とでも呼びたい話を、私はいく十となく聞いていました。 (p175)大和朝廷の発展期に、いくどか行われた熊襲や東夷を征服する戦争の民族的な記憶は、いつかヤマトタケルノミコトというひとりの英雄の物語を生み出しました。 複数の人々の集団的な体験、民族的な体験が、ひとりの人間の体験として抽象され集約されていった数多くの例を、私達はこの国の歴史の中にも、外国の歴史の中にも、いくらでも見つけ出すことがができると思います。 「被爆太郎」は数え切れぬ人々の集団的な体験、民族的な体験を、ひとりの身に凝縮した存在として、私達の前にたち現れます。 吉野さんによって私に語られたこの話は、被爆後二十数年の日本の戦後社会が、すでに「被爆民話」を生み出しつつあることの一つの証拠ではないか----私はそう、空想してみました。 (p175)私は、またもうひとつの空想をしてみました。つまり吉野さんが被爆者でなかった、と空想してみるのです。 (p175)そのうえで、被爆体験が偽って語られたことと、その人が被爆したこととの関係ではなくて、被爆体験が偽って語られたことと、その人が被爆しなかったこととの関係を、つくづく、考えてみました。 空想によって、被爆者でない吉野さんを直視するとき、それでも、どうしても否定することのできない悲運を負った存在としての吉野さんの姿が見えてきます。 吉野さんがきわめて病弱な人であるということはだれにも否定のしようがありません。 口やそぶりで病を詐っても医師や検査技師を騙す事は出来ません。二十四種類の病気を持ち、八十種類の薬を飲んでいるという吉野さんの姿は、かりに被爆はしなかったとしても残る吉野さんの現実です。 (p176)もし人が、生まれながらにしてこのような条件を背負って人生を歩み始めたとしたら、その人はいったい、自分のその苦悩の意味づけを、どのようにして得ることができるでしょうか。 意味づけの得られない苦悩は、いっそう、耐え難い重みをますにちがいありません。 人間は自分の生と死の意味づけを求めて生きている。 その意味づけは、ただ、他とのかかわりのなかでだけ、得られる。 人間はしばしば、意味づけの得られない生よりも、意味づけの得られる死のほうを選ぶ。 (p179)原子爆弾はそれを拒もうとする人間の行為に対して、実に不思議な意味づけの力をもっています。 それがあまりに残酷で、犯罪的で、人類の未来にたいして破滅的状況を与える不気味な可能性を持っているために、原子爆弾は、それに反対し、それを廃絶させ、使用を阻止させようとする人間の営みにたいして、限りなく大きな意味を付与するのです。 その残虐性や破壊力の巨大さとちょうど等量の大きさの意味を、その営みに対して与えるものです。 被爆者は自分の苦悩が、同じ苦悩を他の人々に味わわせないことに役立てられることをつうじて、自分の苦悩の意味づけを獲得し、その苦悩に耐える力を持つことができます。 核兵器が人類を破滅状態にさせうる破壊力を持っているために、被爆者の死と、その苦悩に満ちた生は、それが核兵器を再び使わせず、廃絶させることに役立てられる道をつうじて、人類史的な意味を獲得するのです。 (p180)吉野さんが生まれながらに病弱な、吃音や恵まれぬ肉体的条件をもった人だと私は空想してみました。 吉野さんは、ひょっとすると久留米市で空襲にあった人かもしれない、とも空想してみました。 戦後のある時期、お兄さんといっしょに、長崎市の城山町に住んだことのある人かもしれない。そのとき、爆心地のようすをみたり、長崎大学医学部付属病院で治療を受ける機会があった人かもしれないと空想してみました。 生まれながらに意味づけを得られない苦悩を負って生きてきた吉野さんが、その時期にか、または別の機会にか、被爆者と縁をもつようになったことを私は空想してみました。 (p181)私は多くの地方で被爆者に会い、被爆者の運動にふれる機会をもちました。 「あの人は実は被爆者ではないのではないか」 そんなふうに他の被爆者から噂される被爆者があることを、いちどだけでなく知らされました。それが、その地区の活動を代表するような被爆者であることを知って、おどろかされたこともありました。 しかし、それにもかかわらず、その人が献身的な活動を続け、被爆者としての活動が、その人の生活、というより、その人の人生の中心となっていることを知るときも、私は原子爆弾が人間の行為に対してもっている不思議な意味づけの力を感じ、戦後に被爆者が生まれていることを感じるのです。 最後に伊藤氏が知る悲劇的結末。 (p191)「荒川で被爆者が自殺」 ×日午前十時ごろ、埼玉県秩父郡大滝村大滝の荒川右岸近くに男の死体があるのを近所の主婦が見つけ、秩父署に届け出た。同署で調べたところ、持っていた顔写真付きの診察券から東京都目黒区中町○○○○××荘内、無職、吉野啓二さん(44)とわかった。死後、一週間くらい(新聞記事より)。 (p195)日本被団協事務局からの電話で、吉野さんの遺体が奥秩父の三峰山の山の中で見つかったことを私は報されました。 (p201)そして吉野さんの生涯を思いました。 吉野さんが、長崎に原子爆弾が投下されたあの日どこにいた人か、吉野さんの「被爆者体験」がどのような過程をつうじて生成されていったのか、私には判りません。 私はただ、吉野さんの話の背後に、原子爆弾に被爆して亡くなった、無数の人々の声のない声を感ぜずにはいられません。その声が吉野さんを深くつき動かして、あのように、その被爆者体験を語らせたことを感ぜずにはいられません。もし亡くなった被爆者達の体験、その人々の声が、吉野さんの話のなかにとりいれられていたとするならば、死者達が生きている吉野さんの口をかりてその体験と怨念を私に語った、私の録音機をとおして限りない数の人々に語った、そう考えることは、それほど事実から遠くもなく、非科学的な表現でもないような気がします。虚構を語ることによって、その死者たちの怨念を身に負う重みにひしがれることが、吉野さんになかったでしょうか。それが不安定だった吉野さんの精神状態と、どこかで繋がっていることはなかったでしょうか。 (その5)に続く。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年01月31日 19時57分47秒
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