ゴーヤチャンプルを作って食べた。ニガウリ料理。ゴーヤをかまぼこ状に細かく切り人参椎茸豚肉とともに炒めてさいごに木綿ごしの豆腐をちぎり投げ込む。免疫系を癒す効果がある。おかげで集中的に睡眠がとれた。さて、話を続ける。1985年8月13日正午前にはわれわれは山を登りはじめていた。いや、すでに山頂ちかくまできていたはずである。なぜなら川上慶子ちゃんら四人が救出された直後には山頂にいたからだ。しかしそうするとわたしたちがクルマで都内を出発したのは13日の夜明け前だったのかも知れない。じつはここのところは記憶が曖昧だ。当時の取材ノートが出てくれば正確な時系列が再現できるのだが。すでに、藤岡から上野村へ入ったあたりできびしい交通規制がしかれていて一般車両は現場付近にはちかづけない状態になっていた。報道の腕章をみせて検問を通過したあたりから道は舗装が切れひどい悪路になっていた。クルマの底を擦りながら強引に走る。低いカローラの天井に頭をぶつけながら山道をかなり走った。1985年当時の上野村は人口が1900人ほど。手元の資料によれば、昭和35年当時4299人いた人口が日航機事件当時は1968人にまで過疎化が進んでいたようだ。
1985年8月13日からの数日間、あの御巣鷹の墜落現場に立ち会っていた人間はどれくらいいたろうか。救助の自衛隊員たち、地元上野村の消防団の人びと、警察関係者、日航の関係者それにテレビクルー、通信社と新聞記者わたしたちのような雑誌記者など…たしかに多くの人びとが爆撃のあとのような凄惨な現場を生に見ている、だがその数はぜんぶ合わせても2000名には満たないのではないか。阪神が優勝した年だった。夏の甲子園ではちょうど桑田・清原のKKコンビが春夏連覇、いや春の選抜では惜敗していたか…とにかくPLは二回戦で東海大山形を29-7の大差でやぶり準々で高知を下し決勝では宇部商だったか?を破って優勝しているはずで、13日はちょうどその二回戦あたりのところだったろう。もっともわたし個人は強すぎるPLを応援する気にはならなかったが。ともあれ、われわれは険しい山岳を登っていた。登山をすることになるなどとは思いもしなかったからそのような装備もしていない、わたしはトレッキングシューズにジーンズ、カメラマン役の編集者もほぼおなじような服装だった。いや同時に山頂を目指す各社の記者たちも似たような有様だった。大型の無線トーキーを肩からぶら下げる程度は大した負担でもなく、気の毒なのは10数キロはあるようなテレビカメラを担いで登坂しているテレビ局の報道カメラマンたちだった。中腹あたりまで登ったところでおかしな話がながれてきた、山腹にJAL123便の水平尾翼だけが突き刺さるように残っている光景を目にした前後だとおもう。消防団のハッピをまとった男が上から降りてきながら、「
放射能汚染がある ので谷の水は飲まねえよーになあ」と触れ回っているのだ。そんなことを云われてもわたしも相棒も途中の渓流でああ美味いなあ!とたっぷり飲んでしまったあとである。前後をゆく他社の連中だっておなじだった。暑い日だった。樹木のあいだからのぞく青空は紺碧だった。咽はからからになる、流れ出るというより噴き出る汗は着衣を濡らした。それにほぼ一睡もしていないままだ。クライマーズ・ハイではないが、それにちかい脳内分泌ジョータイだっただろう。
いささか劇画風にふり返るならば、あのときわれわれは、かのXファイルの描き出すところのアウターリミッツな現場(ゾーン)に足を踏み入れていたのだった
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つづく