あのでぶっとした体躯が広島を往く、ほとんど政治のオモチャと化した電動デジタルホリエモンだ。ドラマった曇天の朝に昨夜の小嵐が揮発してゆく。留守のあいだにすっかり夜遊びを覚えてしまった黒猫コテツは濡れた軒下の夏草のなかから蝉をくわえながら現れた。戦後最高を記録するかも知れない投票率と黄色奴隷化の道をあゆみはじめたニッポンチャチャチャか。NHKと政権政党のプリンスメロンのケッタイをまったく報道さえも出来ない電波メディアの自堕落にもヘイザな平凡が大衆と国民の貌になりきって出演役者の顔ぶれも東に南瓜自民、西に中堅若手官僚集団と化した民主でON-OFFなデジタルバキューン!女殺し油地獄天国だ。ほぞかむ社民の自業自得も陰でニヤツク小沢タヌキも胸にペコちゃんダッコちゃんの田中知事党首も「、」ばかりな「。」のモーニングワイドたれぱんだか。民主主義のこのような豊饒の果ての(いや実際豊饒などとはちっとも思わないが、まあ爛熟)腐った林檎のような民主平等なるシロモノの奥深くをのぞき見れば何とも奇態なキリスト教原理主義のエコロジーが見えてくる。すぐれているのは西欧文化でそれらはこのパーソナルなパー寸いやパースンのパソコンデジタル消費石油乱雑卑猥文化を爛熟させているのだが、それらのこれらが東洋文化やイスラム文化よりもはたしてすぐれていると言えるのか。ディズニー映画の如くに自然に過剰に感情移入して結果あげくのクジラ保護や動物愛護の過剰に反省はないのか。山紫水明のこの国土をもたらした2000年だかのこの列島の川やら山にいたるところにおわすであろう神々よりもいったいどーしてキリストなのかとかなどもういちどかんがえること。この民主政治の東洋的な深化や進化もあるのではないのかなどとかぎっちょん。選択選挙などと、もしいうならば、争点は郵政でも年金でもないだろう、改革の是非でも改憲のカンヌンでもないだろう、いま問われているのは、このままグローバリゼーションの潮流に身を投げ込み多民族国家のみち(その精神におけるいっそうの西欧化とキリスト教国教化)を選ぶのか、それとも島國国家という地理的優位性によって、できるだけ単一民族でありつづけようとする道を選択するか、いずれを選ぶかという、「究極の選択」すなわち、民族の興亡の、文化文明と哲学の、極めて深刻なことがらにかかわることではないのかとおもう。「国際化」とはそもそも何か、と。…いささか突飛に映ることも覚悟で、以下の文章を掲げておこう。参考までに。
終戦の何十年かあとになって、アメリカの歴史研究家が思いに沈むことはないとしても、日本の歴史研究者は長い溜め息をつくことがあるにちがいない。昭和十六年九月、十月、十一月と昭和二十年五月、六月、七月の奇怪な相似を見比べてのことだ。
どのような嘆息なのか。
一九四一年九月、十月、十一月、アメリカの指導者が是が非でも日本を戦いに追い込もうとした三ヶ月、そして一九四五年五月、六月、七月、これまたアメリカの指導者が絶対に日本を戦いつづけさせようとした三ヶ月、二人のアメリカの指導者が望んだこと、やったことが恐ろしいほどに似通っていると考えながら、昭和十六年と昭和二十年の日本の政府と軍の首脳たちが望んだこと、やったことと思い比べての嘆息となるはずである。(鳥居民『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』263頁より引用)
政治家は嘘つきだが、歴史もまた見え透いた嘘を平然と突き通そうとするものである。
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