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あしなみ揃えて! ~日蓮大聖人様に寄り添いながら~

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2010年05月21日
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カテゴリ:日蓮正宗
 

3 正しい宗教と信仰【信仰を持たない人へ】

 

※日蓮正宗公式HPより転載

http://www.nichirenshoshu.or.jp/index.htm

 

4・「さわらぬ神にたたりなし」で、宗教に近づかない方(ほう)がよいと思うが

 

 「さわらぬ神にたたりなし」」とか「参(まい)らぬ仏に罰(ばち)は当たらぬ」ということわざは、信仰とかかわりを持(も)たなければ、利益(りやく)も罰も受けることはないとの意味ですが、一般には広くなにごとも近づかなければ無難(ぶなん)であるという意味に使われています。

 たしかに間違(まちが)った宗教には近づかない方が無難ですが、こと正しい仏法に対して、このような考えを持つことは誤(あやま)りです。

 釈尊は、

「今(いま)此(こ)の三界は皆(みな)是(こ)れ我(わ)が有(う)なり。其(そ)の中(なか)の衆生は悉(ことごと)く是(こ)れ吾(わ)が子なり。」(譬喩品第三・開結一六八)

と説かれ、世の中のすべては仏の所有(しょゆう)するところであり、人々はすべて仏の子供であるといわれています。いいかえると、仏法とは文字(もじ)通(どお)り仏が悟(さと)られた真理(しんり)の法則(ほうそく)ということであり、私たちは誰ひとりとしてこの真理の法則(ほうそく)から逃(のが)れることはできません。

 仏教では宇(う)宙(ちゅう)全体を指して法界(ほうかい)といいますが、日蓮大聖人は、

「法界一法として漏(も)るゝ事無き」(御義口伝・御書1798頁)

と仰(おお)せられ、仏が開悟(かいご)した法は宇宙法界に漏(も)れなくゆきわたっていると教えられています。

 

ですから信仰を持たなければ罰も当たらないというのは、警察署(けいさつしょ)に近づかなければ罰(ばっ)せられることもないということと同じで幼稚(ようち)な理屈(りくつ)であることがわかるでしょう。

 もし正しい仏法に近づかなければ、真実の幸福をもたらす教えを知ることができないわけですから、それこそ日々の生活が、仏に背(そむ)き、法を破(やぶ)る悪業(あくごう)の積(つ)み重(かさ)ねとなっていくのです。

 ましてや仏の慈悲(じひ)は人を救(すく)い善導(ぜんどう)するところにあり、たたりなどあるわけがありませんし、罰といっても、親が我が子を導(みちび)く手段(しゅだん)として叱(しか)ることと同じで、それも親の愛情の一分(いちぶん)であることを知らなければなりません。

 その意味から考えても、罰が当たるから仏法に近づかないというのは、親や教師がうるさいからといってこそこそ逃(に)げ回(まわ)っている子供と同じことで、およそ健全(けんぜん)な人間に育(そだ)つはずはないのです。

 いかに自分では信仰と無縁(むえん)のつもりでいても、この世に生きている人はすべて、正しい教えによらなければ真の幸福を得られない存在(そんざい)であり、また仏の掌(たなごころ)の上で生きていることに違(ちが)いはないのですから、自(みずか)らの人生をより爽快(そうかい)なものとし、充実(じゅうじつ)したものとするため一日も早く正しい仏法に帰依(きえ)することが大切なのです。

 






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最終更新日  2010年05月21日 11時47分47秒
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