2612355 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

一夢庵別館

一夢庵別館

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

K.Mark

K.Mark

Rakuten Card

Calendar

Favorite Blog

まだ登録されていません

Comments

背番号のないエース0829@ あだち充 「タッチ名言集 ~ 西村勇 ~ 」に、上記…
背番号のないエース0829@ カトリック 「聖バレンタインデー」に上記の内容につ…
はうリング@ 困ったものです。 はじめまして。 いつも、興味深く拝見さ…
pintu7923@ こんにちは。  掲載が停止したときには、今回の事態の…

Freepage List

Headline News

2012.12.20
XML
カテゴリ:宗教
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第574話 「モーセと十の禍」

 奴隷から始まったエジプトにおけるヨセフの出世奇譚に関しては、少なくとも、自分の一族をカナンからエジプトのゴジェンに移住させて、歴史的な飢饉が続く中で餓死者を出さずにいられただけの権力と財力を手にしていなければ成立せず、せいぜい、なんとか食いつなげるだけの物資を故郷の家族のもとへ送った程度で話が終わったのではないかと私は思います。

 飢饉が長期化していく中では、エジプトには十二分な備蓄物資があるという”噂”が流れただけでも、雲霞のように食い詰めた周辺の部族が押し寄せるようになったでしょうから、その中で特定の一族を条件が良いエジプトの土地に移住させるためには、それなりの金とコネとが必要だったと考えることにさほど無理があるとも思えません。

 そう考えていくと、ヨセフのエジプトにおける立場というのは、”黒衣の宰相”と呼ばれた徳川家康に対する天海(1536~1643)のようなものだったのではないか?という気がしてくるのですが、いわゆる正規の”宰相”では無いものの、ファラオのブレインとして一定の権力を有するに至ったのであればありえたかなと。

 或いは、後の帝政ロシアの時代における、ニコライ2世と怪僧と呼ばれたラスプーチン(1864か1865~1916)の関係もありますから、神秘的な力を示す人物が絶対権力者のブレインとなって国政に影響を与えることは専制君主国家ではさほど珍しく無いとも言えます。

 ただ、そういった神秘的な力を当事者以外が発揮するかどうかは別の話ですし、個人の技芸でその地位と権力を手にしているだけの話ですから、やがてヨセフが没し、その功績を直接知る世代も次第に代替わりしていくと、後に残るのは、エジプト人からしてみれば”大飢饉の時に、勝手にやってきて居座っている異邦人の集団”に過ぎなくなるのも道理なわけです。

 考えてみれば、さんざん、カナンは神によって繁栄が約束された土地であると主張してきた部族が、大飢饉を生き延びるために便宜的にエジプトへ移住したのなら、飢饉が終息に向かえば、それこそ飢饉は7年続くというのが夢を解いた結論だったわけですから、8年目くらいから徐々にはカナンへ戻れば良かったのではなかろうか?

 しかしながら、エジプトへ移住した結果、ヨセフ達は牧羊を軸にした生活とは比較にならないくらい安定した農耕を軸にした生活を経験することにもなり、安楽な生活に溺れたとはいいませんが、カナンへ帰って牧羊を軸にした昔の生活に戻ろうと言い出す人はなかなか表れなかったようです。

 もっとも、当時は機械文明とはほど遠く、人力が物の生産の基盤でしたから、国力というか国の生産力や軍事力などは人口に比例していましたから、流入してきた難民達が既存のエジプトの民よりも下の階層で良しとしている間は、積極的に追い出す必要も無かったことも確かな話になります。

 が、ヨセフたちイスラエルの民に関して言えば、世代を重ねて人口が増えすぎたようで、エジプト国内のイスラエル人の数を抑制するために男子が産まれた場合は殺害するようにといった指示が出たという話もあるのですが、レビの子孫になるモーセが産まれたのはそうった時代だっとされています。

 つまり、既にエジプトにカナンから移住してきた世代は没していて、カナンで暮らしたこともなければ見たこともないような人の方が圧倒的に多い世代になってからの話ということになります。

 モーセの逸話は、旧約聖書の”出エジプト記”、”レビ記”、”民数記”、”申命記”で語られているのですが、古代エジプト第19王朝第3代の王(ファラオ)ラムセス2世(在位:前1290年頃~前1224年頃)の時代に産まれたもくされ、時期的に、アマルナ革命で内政が混乱したエジプトが安定し外への拡張路線に転じていった頃の話になるようです。

 ちなみに、アマルナ革命というのは、広義にはエジプトを中心にオリエント諸国家の間に国交や交易が発達していった前14世紀前半から中頃の出来事全般になるのですが、話を絞り込むと、エジプト第18王朝のアメンヘテプ3世~4世(イクナートン)の治世に、イクナートンの宗教改革(太陽神アテン信仰)が行われ、従来とは異なる神様の”アテン”を頂点とする形態への切り替えは、ファラオを神格化することで、神とファラオを含む人との仲介役という立場で権力を握っていた神官達の権力基盤を削ぐというよりも崩壊させ、社会制度も国王親政を前提に切り替えていった改革とでもいったことになります。

 となれば、膨大な既得権益を掌握していた既存の神官達が面白く思うはずもなく、宗教改革の最終ランナーとなったツタンカーメン王の名前が歴史から消されたり、彼の死に暗殺説がつきまとう理由も、そういった旧・宗教勢力の王族を巻き込んでの巻き返しが苛烈だったことと無縁とは言い難いところがあるわけです。

 その後、アメンヘテプ4世が没してからだと60年くらい後に即位し、内政の混乱を終息させ、対外的にはカデシュの戦(紀元前1286)をもちこたえ、ヒッタイトの南進を阻止した後、ヒッタイトと世界史で最初とされる平和条約を締結し、ヒッタイトの王女と結婚することで両国の繁栄を安定させたのが、従来の太陽神”ラー”によって産まれた(故に”ラーの息子”)とされるラムセス2世になるわけですが、その治世において、エジプトはリビア~ヌビア~パレスチナにかけて勢力を拡大させています。

 史実的にも、モーセが産まれた頃にはイスラエルの民は奴隷身分で働かされることが多くなっていて、旧約聖書では人口が増えすぎたためイスラエルの民に男子が産まれた場合は殺すようにと指示されていたものの、モーセの母親は生後3ヶ月まではなんとかモーセを育てたのですが、隠しきれなくなって一か八かナイル川にモーセを葦で編んだ籠に入れて流したことになっています。

 そして、モーセを入れた籠が川辺に漂着しているのをファラオの娘が偶然発見し、哀れに思った娘が乳母を雇って王宮で育てることにしたら、その雇われた乳母というのがモーセの実の母だったということになっています ・・・ さすがに此の辺りはどこまでが本当かは定かではありませんが。

 成長したモーセは、そのままだと死んでいたところをファラオの娘に拾ってもらって王宮で育てて貰っていながら、見ず知らずのイスラエル人の奴隷がエジプト人の監督に鞭で打たれているところに遭遇すると、そこへ割って入ってエジプト人の監督を殺すという暴挙を犯して官憲に追われる身となり、ミディアン人の地に逃げて羊飼いとして暮らすようになった ・・・ ことになっています。

 話が此の辺りまで進むと、ある意味で根底から物語が破綻することにもなるのですが、逃げ延びて羊飼いになったモーセの側に、いつの間にか実の兄のアーロンがいることになり、それなら別にモーセをナイル川に流す必要も無ければ、ファラオの娘が流されたモーセを拾う必要も無かったんじゃねえの?と言いたくなること請け合いです。

 御都合主義の展開に関しては少し目を閉じておくと、モーセが羊を放牧してうろうろしていた時に、ホレブ山(シナイ山)で”燃える柴”を見付け、それに近寄ったところ炎の中から神が現れてモーセにイスラエルの民をエジプトから救い出しカナンへ戻ってくるようにと告げた ・・・ ことになっています。

 ここで注意が必要なのは、既にエジプトやヒッタイトでは国家が、それも当時としては大国と呼ぶに相応しい規模の国家が成立して世代を重ねていて、時代は既にそういった大国と大国が覇権を争う時代になっていながら、イスラエルの民達の状況はエジプトへ移住した頃の、各家の家長を頂点とした”部族集団”体制と大差が無かったわけですから、カナンへ帰ったとしても、ヒッタイトやエジプトに呑み込まれないだけの国の類を早急に整備しなければ、またどこかの国で奴隷待遇の生活になりかねない状況だったということです。

 と考えていくと、モーセの出自に関わる逸話が、ファラオの娘に河岸で拾われて王宮で育てられたことになっているあたりから邪推すると、エジプト国内で数が増えすぎたイスラエルの民を王室の子飼いであるモーセが指揮する屯田兵としてカナンの地へ派兵し、彼等の自治(実質的にはエジプトの傀儡)国家を建国させ、ヒッタイトとの間に物理的な緩衝地帯を形成することが、出エジプトの本来のエジプト側の目的だったのではなかろうか?

 イスラエルの民からすれば、奴隷身分からの解放と私有財産が持てる国が建国できるといったエジプト側の条件提示があったからこそ、エジプトに移住してから後、数世代の間というか百年以上もの間、誰もカナンで暮らした事が無かったにも関わらず、既に他の部族が長らく定住していたカナンの地へと向かい、その地で暮らしていた部族に”数百年前にそこに先祖が住んでいたことがあるから自分たちの土地だ!”と言いがかりをつけて一方的に戦争をしかけて殺戮し生命財産を強奪したことを正当化したのではなかろうか?

 そもそも論で言えば、ラムセス2世(か次代のファラオのメルエンプタハ)の代に、エジプトからそそくさと立ち去った避難民同様の元・奴隷の集団だったとすれば、どのようにして、城塞都市として名高かったエリコなど、それなりに防御を固め武装もしていたカナン各地の要衝を陥落させることができたのか?

 エジプトで彼等が奴隷身分だったとすれば、少なくとも都市国家の規模の軍を動かして戦線を維持するために必要な資金や武器、物資の類はどこから出たのか?同道していたであろう女子供や高齢者など非戦闘員の食糧や日用品の類の補充まで考えると、エジプトからの兵站支援を抜きに考えることに無理があるのではなかろうか?

 旧約聖書の中では、モーセ達がエジプトを出ることをファラオが認めた主因として、モーセが十の禍をエジプトにもたらせたためファラオが従うしか無くなったとされているのですが、実のところ、その現象のほとんど総てが、上下水道が完備されていない狭い地域に人が密集して住むようになったために汚染物質が大量に垂れ流されて環境破壊が進んだだけではないのか?といった、もっともな説もあります。

 従って、イスラエルの民の大半が立ち去って人口密度が低下し、輩出される汚染物質が減少しただけでそういった現象は伝染病の類を含めて沈静化していったのではないか?と解説は続き、エジプト全土で長男だけが死んだ現象に関しても、当時の通信環境や調査能力などから考えて、ほんとうに(それこそ家畜に至るまで)長男だけが一夜にして死んだのかどうかは微妙な気がしないでもありません。

 ただし、過ぎ越しの祭りの起源になった奇跡現象で、日本だと蘇民将来の起源をここに求める説があり、なんらかの極めて不可解な現象が短時間の内に発生して多数の男の幼子が死んだという話に、元になった何らかの話が無い方が不思議というのももっともな話ではあるわけです ・・・ それが生じた時や場所がモーセの頃のエジプトだったかどうかはともかくとして。

(2012/11/21)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2012.12.20 13:14:21
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.