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2012.12.21
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カテゴリ:宗教
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第575話 「モーセと十戒」

 モーセといえば十戒というくらいセットで語られる事が多いのですが、ハタと考え込むのは、出エジプトの際にモーセたちが大恩あるエジプトにもたらした禍の数も十とされていますから、モーセの象徴数字が10なのかもしれませんな。

 出エジプトという話も、見方を変えれば国内の異民族の増加に悩まされるようになったエジプトから体よく追い出されたのを自らの意志で出たのだと主張しているような気もしますし、その後のモーセたちが行ったことが実質的にはカナン攻略戦争だったことから考えて、エジプトの首脳部が物資や資金などで援助しなければ不可能だったのではないかという話は、4-574”モーゼと十の禍”の回で少しした邪推ネタだったりもします(笑)。

 餓死者が出るような長期間の飢饉が発生してカナンを捨ててエジプトへ移住し、飢饉が終息してもズルズルとエジプト生活を続けたということは、いかに居心地が良かったかということの反証にもなるわけですが、異民族に居座られてしかも急速にその人数が増えてくると、本来のエジプト国民からすれば、”庇を貸して母屋を盗られる”気がしてくるのは無理が無いところで、イスラエル人の大半を奴隷階層としたのも当時の感覚からすれば妥当だったのではないかと。

 つまり、”エジプト王国に異民族でファラオ(国王)を神聖視しないお前達が居続ける限りお前達は奴隷扱いだ!飢饉はとっくの昔に終息したのだから、さっさとカナンへ帰れ!”というもっともな意見と、”ヒッタイトが南下してくる際、武力的な緩衝地帯が欲しい”という軍事的なニーズの妥協点が出エジプトだったのではないかということで、それまでの宗教絡みの内政の混乱が収束したことと、ヒッタイトとの抗争が一段落したことでラムセス2世の頃のエジプトとしては次の一手を考える余裕が出てきたとも考えられます。

 問題は、エジプトへイスラエル人がカナンを離れて移住してから百年以上の時間が経過していたことで、その間、イスラエル人達が去ったカナンの地が無人の荒野になったわけもなく、別の部族がカナンの地でそれこそ先祖代々の生活を既に過ごしていたことでしょう。

 そもそも論で言えば、アブラハムの代に長男のイシュマルは母のハガルがエジプト人奴隷だったというだけの理由で長子権を抹消された上に母と伴に一族から追放され、後にエジプト人の妻を得て子を成してアラブ人の祖となった(とされている)わけですから、いくら正妻の子ではあっても次男のイサクが出自の他に落ち度のない兄を追放してアブラハムの財を総て取ったのは簒奪に相当するだけに、この段階で既に正当な継承とは言い難いわけです。

 そのイサクの子のエサウとヤコブの対立の際には、長子権をヤコブが欺瞞の末にエサウから奪取したものの、ヤコブを支持する勢力が少数派だったため母方の伯父のところへ夜逃げしてほとぼりを冷まし、騒動から20年近く経過して兄から許されて帰参し、実質的に長子権は夜逃げした段階で放棄した形になって落着したわけです。

 その意味で、アブラハムの本来の正当な系譜はイシュマルですし、イシュマル追放後の直系の系譜はエサウということになるにも関わらず、一族の傍流で、天使と闘った時に天使から”以後はイスラエルと名乗るように”と言われたヤコブの12人の子供の話が聖書で延々と語られるようになるわけです。

 その12人の子供にしても、夢占いの能力でエジプトで異例の出世をしたとはいってもヨセフはヤコブにとっては11男で、部族からすれば末席に過ぎないわけですし、出エジプトに際してヨセフの子孫が特に何をしたという話は確認できません。

 というか、ヨセフの代から数代後に唐突に時代が移り、ヤコブの12人の子供の中で三男のレビの子孫になるモーセが急に(ヤコブの子孫ということになる)イスラエル人を主導するようになるわけで、長男のルベンや11男のヨセフの子孫の立場はどうなる?という気がするのは私だけか?

 逆に言えば、なぜモーセは長男ルベンの子孫ということにならなかったのか?ということにもなり、うがった見方をすれば、系譜があやふやになっていた子孫の中で序列が一番高かったのがレビの系譜で、”ナイル川に捨てられ、偶然、エジプト人に拾われて王宮で育てられた”という出自ロンダリングというか、いかにも怪しげな経歴と合わせて考えると、モーセは本当にイスラエル(ヤコブ)の血を引いていたのかという疑念さえ生じてくるわけです。

 また、なぜエジプトに10回も禍をもたらせたのか?も謎で、言い換えれば、”なぜ最初からエジプト全土の長男を死に絶えさせて1回か2回の禍で事を済ませなかったのか?”ということになりますが、その他の禍というのは、

1 ナイル川が血の色に変わって水が飲めなくなり魚が死に絶えた。

2 大量のカエルが川から発生しエジプトを埋め尽くした。

3 ブヨが大発生し、人や家畜が襲われた。

4 虻が大発生し、人が襲われた。

5 疫病が大流行し、多くの人や家畜が死んだ。

6 (奇妙な)煤が人や家畜につくと、そこに腫れ物が出来て膿が出た.

7 雹が降って農作物に大きな被害が出た。

8 蝗(いなご)が大量発生しエジプト全土で農作物に大きな被害が出た。

9 3日の間、太陽が陰りエジプト全土が暗闇に覆われた。

といったことになるのですが、3日の間暗闇に覆われたこと以外は、その後も何度と無く人類が悩まされている災害ですから、この時限りの珍しい現象とは言い難いだけに、実質的に、奇跡現象は3日間の暗黒化と、長男のみ(一夜にして)死に絶えた2つの事例に限定されるのではなかろうか?

 それがなぜ十の禍と称されるようになったのか?といえば、やはり、十の禍、十の戒とセットにすることで十戒を印象づけるためだったのではないかと(邪推)。

 聖書においては、エジプト全土で一夜にして、ファラオの息子を含む総ての長男が死ぬという怪奇現象が発生し、家の戸口に一定の印を付けたイスラエル人の家だけはその禍を免れたことから、ファラオが折れてモーセの要求を聞き入れて、イスラエル人を奴隷身分から解放してエジプトから出ていくことを認めたとされています。

 もちろん、こういった10の禍は事前にモーセによって予告されていたことになっているのですが、ならばこそ、なぜファラオは自らの後継者の命を間接的に奪ったイスラエルの民を皆殺しにしなかったのか?が謎になります。

 その辺りも素直に考えれば、ファラオにとって長男が邪魔になっていたか、本来は無関係の長男の急死さえも政治の道具に利用して、イスラエルの民を奴隷身分から解放する理由としたか、本当に奇跡現象で報復することによって生じる更なる神罰を怖れたのか?

 いずれにしても、ファラオが公認した形で、イスラエルの民は奴隷身分から解放されてカナンを目指すことになるのですが、此の辺りがいわゆる”出エジプト”ということになります。

 そして、映画”十戒”などでは一つのハイライトシーンになるのが、エジプトを出てしばらく進んだ後、モーセの率いる集団が葦の海(紅海という説もある)の岸辺にたどり着いた頃に、ファラオの軍勢が後方から迫って来ていることに気がついたモーセが膿に向かって杖を掲げると膿が二つに割れて海底が露呈し、そこを通って一考は無事に対岸へ渡り、後を追ってきたエジプト軍が同じように渡っている途中で海が元のように戻ってしまいほとんどのエジプト将兵が完全武装のまま溺死した ・・・ とされています。

 ここで肝要なのは、”大量のエジプトの正規軍が海の呑まれて死んだ”ことになっている点で、素直に考えれば、エジプトの正規軍がカナンに帰るイスラエル人に加わって、後の戦闘の主体となったのではないかということで、そうすることで、エジプトがカナン地方を侵略したのではないとヒッタイトなどの周辺諸国に言い訳ができたのではなかろうか?

 葦の海を渡ってから3日後、一行はやっとの思いで水がある場所にたどり着くのですが、その水が苦くてとても飲めなかったことで一行の不満が高まったというか生き死にの問題になりかけるのですが、モーセが神の指示に従って木の枝を水に投げ入れるとたちまち甘い水に変わって飲めるようになったとされています。

 もちろん、大量の荷物を運んだり食糧や生け贄にするために、駱駝や羊、ロバなどの家畜も同道していたでしょうから、そういった家畜たちの消費する水や食糧の調達も問題になるだけに、聖書の記述においてさえも、水や食糧の不足が原因で何度と無く不満が爆発しかけたことになっていますが、大規模になればなるほど、常にない規模で大人数が移動する際に生じる水や食糧の需要を現地調達だけで賄うことは困難でしょうから、やはり定期的な補給活動などの後方支援を抜きにカナンに辿り着けたとは考えにくいのではなかろうか?

 何よりも不可解なことは、モーセ一行がカナンに辿り着くまでの行程に、最短距離に近い北方ルートと、聖書の記述に符合する点が多い南方ルートの2つの説があることで、聖書で各地の部族を撃破しながらカナンを目指しているあたりでも、カナンを目指してやっとの思いでエジプトを出たのだとすれば、何の怨みもない他の部族を滅ぼしながら遠回りな南方ルートでカナンに向かう理由が良く分からなくなりますし、戦闘となれば戦死者も怪我人も出て補充がなければ先細りするハズなのに、最終目的地のカナンで現地の部族と城塞都市攻めを含む全面戦争を長期間実施していながら勝利している謎もあります。

 怪しい話の愛読者なら御存知のように、同程度の武装で城や要塞を攻める場合、守備の3倍以上の戦力で攻めてやっと陥落させられることが経験的に知られているだけに、カナンの守備の情報なども事前に ・・・ エジプトを出る前の段階で ・・・ 概略程度でも掌握しておく必要があるわけです。

 もっとも、エジプトのファラオの主目的にシナイ半島における影響力の強化も含まれていたとすれば、遠回りな南方ルートでなければならなかった理由も腑に落ちますし、イスラエルの一団が立ち去った後に、エジプトの正規軍や官僚が駐屯してエジプトの影響力が強化されていったとしてもさほど驚きません。

 その後、エジプトを出てから3ヶ月程で一行はシナイ山の麓に辿り着き、一行が麓で休んでいる間にモーセは神に呼ばれて山頂へと向かい、神との間で十の契約が結ばれて石版に刻まれ、それが後に”十戒”として知られることになるのですが、大洪水の後にノアと神との間で交わされた”ノア契約”の後、神とイスラエルの民との間だけで新たに契約が結ばれたわけです。

 が、モーセが(おそらく意気揚々と)山から下りてくると、麓に残っていた一行は飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ状態だったようで、その有様に激怒したモーセは十戒が刻まれた石版を叩き割ってしまうのですが、それ以後の話はまた次回の講釈で(笑)。

(2012/11/22)





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Last updated  2012.12.21 11:59:25
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