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2013.02.22
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カテゴリ:宗教
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第640話 「黒ミサの変遷」

 黒ミサという概念は、魔術を人の正の方向に使う白魔術と負の方向に使う黒魔術に便宜的に分けるのとは違い、基督教の礼拝集会であるミサ(ラテン語でmissa、英語でmass)を冒涜する目的で行われる集会全般を意味することになります。

 悪魔や邪教の崇拝者達の夜会や宴会を”サバト”と主に基督教関係者側が呼称し、その実態がケルトやゲルマン、古代羅馬などを起源とする古代の祭祀や、田園地帯で行われていた当時の合コンや婚活を目的とした集会や宴会の類だったという話は以前に少ししたことがありますが、早い話、11~17世紀頃の欧羅巴などでは基督教の儀式以外で人が集まってどんちゃん騒ぎをしていれば、基督教関係者から総てサバトに区分されかねない状況だったと言えます。

 基督教の主流派による異分子の排斥という点では、後の異端審問や魔女狩りや宗教裁判と軌を一にしているわけですが、黒ミサの起源として中世の仏蘭西南部を舞台にしてグレゴリオ9世によって12世紀の末頃に大弾圧された基督教アルビ派や、(基督の化肉や十字架などの象徴を認めないといった)グノーシス派的な教義を支持した聖堂騎士団系の反羅馬カトリックの流れが上げられることがあります。

 しかしながら、実際に歴史上に黒ミサの実例というか黒ミサが発覚した事件が登場するのは15世紀のジル・ド・レ元帥の嬰児殺しや、16世紀のカトリーヌ・ド・メディチとシャルル9世の悪魔礼拝あたりになり、それ以前となると伝説の域を出ないというか、そもそも羅馬カトリックをして正確に基督の教義を布教しているのかという根本的な疑念があり、何をもって”黒”とするのか?という話にもなるわけです。

 私の知る限りではという前提になりますが、そもそも基督は偶像崇拝を批判し否定していたわけで、それは母胎となったユダヤ教にしてもアブラハムから分派していったイスラムの系譜にしても共通した教義というか傾向で、旧約聖書でしばしば黄金の牛の彫像などの偶像を崇拝する民に宗教的な指導者が激怒して粛正していたりもします。

 基督の逸話に限定しても、分かりやすいところでは基督が十字架の類を用いて奇跡現象を起こした逸話は無く、悪魔憑きの人から悪魔を追い出す(いわゆるエクソシストですな)にしても、病気を治すにしても祭具を含む何らかの道具を用いていなかったりします。

 十字架が基督教の信仰のなかで重視され宗教儀式の道具として積極的に利用されるようになったのが、羅馬帝国のコンスタンティヌス帝が基督教を公認し国教となった4世紀以降の話であるにも関わらず、いつの間にか”基督教の象徴=十字架”となり、十字架や十字架に磔にされた基督の像などを礼拝の対象としたり儀式に用いるようになっていったわけで、”それって、基督の嫌った偶像崇拝そのものじゃね?”と思うわけです ・・・ 異教徒から見ればですが。

 そもそも論で言えば、十字架の起源は古代エジプトのアンク十字あたりに辿り着くわけで、勘のいい人はお解りでしょうが、アンク十字といえばエジプト魔術の呪具として継承されていたものが最古となるだけに、基督以前の宗教や魔術の類が絡む話になるわけですが、十字架の変遷に関しては以前に4-92”薔薇と十字架”や4-95”十字架と吸血鬼”の回などで触れたことがあるので今回は省略します。

 旧約聖書の中に、4-570”アブラハム騒動”の回で少し触れたことがありますが、”敬虔な信者として知られるアブラハムが我が年老いてやっと得た愛子のイサクを生け贄として神に命じられるままに捧げようとして、生け贄として捧げるようにと指示した側の神が大慌てで天使を派遣して止める有名な逸話があるのですが、実は、古代の神の祭事には、黒ミサの儀式として定番とされる、赤ん坊を含む人間を生け贄として捧げる儀式は珍しくなかったりします。

 例えば、セム族のモロック神信仰、古代フェニキアのバール神信仰、ゲルマンのドルイド信仰、古代ギリシャのディオニッソス信仰などの祭儀などに生け贄に人の赤ん坊が用いられる事があったのは確かな話で、旧約聖書のレビ記の一節に”血はその中に生命がある ・・・”とし”・・・。汝らのうち、何人も血をくらうべからず。”と話が続くあたりでも、人の血をくらう儀式が珍しく無く、対象の血液や肉を摂取したり一定の儀式に用いることで、その力を得ることができるとか、対象の肉体や魂をも虜にして操れるようになったり、他の事物に抜き取った生命力の類を付与したりできるようになるといった考えは洋の東西を問わず古代から存在しています。

 南米のマヤやアステカなどで人間の心臓を儀式に利用することが珍しく無く、それこそ”太陽に活力を与えて日々の運行を助けるために”祭壇に横たわった生け贄の胸を生きたまま切り開いて心臓を取り出して太陽に捧げることが恒常化していたわけですが、南米の宗教儀式の特徴の一つが、生け贄として選ばれることが名誉であり、戦いの敗者ではなく勝者が、弱者ではなく強者であるが故に生け贄としての価値があるとされていたことではないかと。

 それはそれとして、羅馬カトリックなど主流派の基督教における”ミサ”は基督教の儀礼や儀式の代表格として知られる”典礼”の中枢をなす礼拝集会のことで、カトリック教会のミサの式次第は、 ”開祭 → 言葉の典礼 → 感謝の典礼 → 交わりの儀 → 閉祭。”となり、東方正教会でも大同小異ですが、典礼文やミサ曲などに差違が生じていることがままあるようです。

 ちなみに、ミサ典礼文の中の通常式文(ミサ)のために作曲された音楽がミサ曲で、求憐誦キリエ(Kyrie)、栄光誦グロリア(Gloria)、信経クレド(Credo)、三聖頌サンクトゥス(Sanctus)、神の小羊アニュス・デイ (AgnusDei)の5つのジャンルが定番ですが、もちろんというか基督が存命中には存在しません。

 基督教の布教に限らず、文盲で無学な大衆を相手に布教する場合、歌って踊って興味を引くと同時に暗記しやすくなる工夫が凝らされるようになることがままあり、日本だと空也(903~972)や一遍(1239~1289)の踊り念仏が大教団を形成していく切っ掛けとなったり、歌舞伎などの演劇の礎になったという話を以前にしたことがありますが、文字が読める人が少なく、印刷技術が未発達だと聖書の出版も筆写が中心で本が高額かつ少量出版になるだけに、教義や説法をいかにして信者や一般に(できるだけ正確に)膾炙させるかの工夫は不可欠だったわけです。

 ミサ曲に関しては、ポリフォニー音楽(多声音楽)の発展にともなって合唱曲として作曲されるようになったというのが定説で、14世紀にマショーが通常式文の5曲を通して作曲(通作ミサ曲)したあたりが嚆矢として知られています。

 15世紀以降にデュファイらによってミサ曲の手法が確立された後は、オケヘムやJ. S.バッハ、モーツァルト、ベートーベン(荘厳ミサ曲)、シューベルトといった有名な作曲家達が独自に作曲した作品が増えていくのですが、古典派以降になると宗教儀式専用だけでなく演奏会用の作品として作曲されることも珍しくなくなっていきますから、その辺りは、踊り念仏から歌舞伎が派生していったように宗教から歌舞音曲が分派していくことが珍しくないと解釈することもできます。

 ちなみに、レクイエムというのもミサ曲の一つのジャンルとして知られていますが、本来は、羅馬カトリック系の教会で行われる死者のためのミサ典礼で、”入祭文 →(求憐誦) →昇階誦 →詠誦 →続誦〈怒りの日〉 →奉献文 →(三聖誦) →(神の小羊) →聖体拝領。”といった流れになっていることが多いようですが、冒頭の入祭文が”レクイエム(安息を)・・・”で始まることからレクイエムの名称で知られているわけです。

 まあ、私なんぞはレクイエムの曲(鎮魂ミサ曲)としてはモーツアルトのレクイエムくらいしか知りませんが、オケヘム、ビクトリア、モーツァルトといったラテンの詩句による諸作の他に、シュッツやブラームスなどの独逸語による”独逸レクイエム”も有名だそうで、宗教儀式の曲かどうか微妙なW.オーエンの英語の詩をラテン語典礼文とともに用いたブリテンの”戦争レクイエム”もレクイエムの名曲として知られています。

 ただ、羅馬カトリックの流れでさえ、グレゴリウス1世(540?~604)によって編纂されたグレゴリオ聖歌(羅馬典礼聖歌)が、ユダヤ教の典礼音楽がギリシャ文化の影響を受けて発展したものというのが定説ではあるものの、現在伝わるグレゴリオ聖歌がフランク地方で8世紀頃に歌われていたものが9世紀の末頃に楽譜が付いた聖歌集として編纂されたことから分かるように、オリジナルのグレゴリオ聖歌がどのようなものだったのか?が実は定かでは無かったりします。

 少し視野を広げると、初期基督教の発展の過程で、エジプトのコプト聖歌やコンスタンティノープルを中心に発展しアラブ音楽の影響を受けたビザンティン聖歌などなど東方教会系の典礼聖歌の流れも存在するわけですから、各宗派、各地域で特色ある様式を確立し時代とともに進化というか変化していったことが分かるのですが、基督教内部でさえ気にくわない宗派のミサの儀式やミサ曲が異端として排斥されたことも確かな話で、異端とされれば自動的にそのミサは邪教の黒ミサに区分されかねないだけに、基督教内部の正統が邪宗か争いもまた黒ミサを産む一つの原動力になったと考えられます。

 興味深いのは、羅馬カトリックのミサ曲がルネッサンス期のジョスカン・デ・プレ(1440?~1521)からベートーベン(1770~1827、独)のあたりの流れで形成され、ルター派の独逸プロテスタントのミサ曲がシュッツ(1585~1672)からバロック音楽の巨匠として知られるJ.S.バッハ(1685~1750、大バッハ)への流れで形成されていて、この2つの流れがミサ曲の二大潮流になっているというか、実質的に16~18世紀にミサ曲が定着したと考えられることで、これは、魔女狩りを含む異端審問の類が収束するのとほぼ同時期の話になっていたりもします。

 ある意味で、黒ミサというのは、純然たる悪魔崇拝というよりも、主流派の基督教教団の行った異端審問や魔女狩りなどへの反発や、私生活にまで事細かに介入するのに、その教えに従っていてもペスト禍や理不尽な戦渦、貧困などから逃れることが出来ない教会への反動と捉えることも可能で、それ故に現役の司祭など教会関係者が主催した黒ミサの事例さえ存在するのではないかという気がしますし、新興宗教が勃興していく際にその地域で主流となっている宗教に取って代わろうとすれば ・・・ その良し悪しは別にして・・・ 布教活動が反基督教的な様相を呈しても不思議では無いわけです。

(2013/02/06)





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Last updated  2013.02.22 09:17:54
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