一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第891話 「葱の東西」
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第891話 「葱の東西」 東日本と西日本とで極端な違いがある野菜の筆頭が”葱(ねぎ)”だと私は長らく考えているのですが、ざっくりと書くと東日本では薬味としてだけではなく葱そのものを主要食材として食べ、西日本では葱を薬味として使うに留まるとでもいったことになります。 それは、東日本で葱の茎の下側の白い部分をもっぱら食すのに対して、西日本では逆に茎の上側の青い(正確には緑色の)部分を食べる違いにも繋がっているのですが、白い部分に葱特有の”辛味”成分(としては”アリシン”)が多く含まれていることが理由としては考えられます ・・・ 辛味をどのくらいありがたがるかということにもなりますが。 ちなみに、葱にも日本三大葱というランキングがあり、群馬県の下仁田ネギ、兵庫県の岩津ネギ、福岡県の博多万能ネギあたりを上げておくと異論が少ないようですが、もちろん”いやいやいやいや、うちの方のネギの○○が ・・・”と言いたくなる人たちがいないといっているわけではありませんので念のため(笑)。 補足しておくと、白ネギ(根ぶかネギ)の代表種としての下仁田ネギ、青ネギ(葉ネギ)の代表種としての博多万能ネギ、そしてその両者の中間種の代表としての岩津ネギといったあたりも考慮してのランキングということで、年間出荷量や販売金額などから見たランキングというわけではないということです。 というか、下仁田ネギといわれても関西人はほとんどありがたがりませんし、下手をすると焼き鳥のネギ間でさえ”鶏肉とネギが同じくらいの値段なんて何かぼられている気がする”と言い出す人が珍しくなかったりするくらいの食材なわけです。 まあ、調理法そのものが関西と関東では異なるので一概には言えませんが、すき焼きにしても”ネギが無いなら春菊かなんか代わりにいれて埋めとけばええやん?”とか”ネギをそんなに分厚う切って入れてからどないすんねん?”とかいったことになりがちなのが西の食卓の光景と書いてもさほど異論は少ないのではなかろうか? もっとも、博多万能ネギは京都の九条ネギの系統の葉ネギで近縁種も多く、意外なことに商標登録されたのが1985年という意味では品種として認識されたのは比較的最近の話になるネギなのですが、”万能”を名前に冠することからもおわかりのように、薬味としてはもちろん、下仁田ネギほどではないにしても鍋でも煮物でもよしというあたりが売りで、ジェット機で空輸されたこともあってか関東圏でも人気や知名度が急拡大中だったりします。 では、博多万能ネギがトップ3に入る以前のランキングはどのようなものだったのか?というと、これは、白ネギに属する東京の千住ネギが入っていることが多く、特徴は栽培時に土を寄せて(わかりやすく書くと茎の部分を埋めるように盛り土をして)意図的に茎の白い部分を長くする栽培方法がとられているあたりではないかと思われますが、地面に埋められる部分が出るためか茎が下仁田ネギほど太くならず、葉の部分が食用とするには硬くなる傾向があります。 逆に言えば、下仁田ネギは茎の部分でも柔らかい白い部分が直径4センチくらいにまで成長することが外見上の特徴ということになるのですが、まあ、下仁田ネギの場合は15ヶ月程度かかるその栽培期間の方が葱の中では特出しているのではなかろうか? ちなみに、下仁田ネギのブランド化は江戸時代に既に生じていて、生だとかなり辛い葱ですが、鍋などに使って加熱すると独特の甘みが出るあたりで人気が出たようで、旗本や大名も好んで食した(とされる)ことから”殿様ねぎ”という別称も出ているのですが、五代将軍・徳川綱吉の元禄の頃には後に小松菜となる葛西の青菜や練馬の大根などがブランド野菜になっていますし、八代将軍・徳川吉宗の享保の頃には岩槻(いわつき、岩附)の牛蒡(ごぼう)、(王子の飛鳥山界隈)滝川の人参や牛蒡などなど独自の”江戸野菜”の栽培が盛んになってブランド化や全国展開も始まっています。 ざっと江戸のブランド野菜をあげていくと、早稲田の茗荷(みょうが)に谷中の生姜(しょうが)、亀戸大根に本所の瓜、料理屋向けの促成栽培でも知られた(江東区北砂・南砂)砂村の茄子や葱、新宿の内藤の南瓜(かぼちゃ)や同じく成子坂の葵瓜(幕府御用としても納められた真桑瓜)などなど、江戸後期までに産地が特定されているブランド野菜化した種が優に50を超えていて、その種を商うだけでも商売になり、中仙道の種問屋などで参勤交代などの際に江戸野菜の種を買い求めて国元で栽培を試みる大名も増えていくようになります。 もちろんというか、自国で栽培に成功した大名は周辺に売り込みを図ることがあり、それと知ってか知らずか江戸野菜が全国に広がっていった部分もあるのですが、逆に徳川吉宗が”採薬使(さいやくし)”という役職を新設してまで諸国の薬草や(有望な)野菜を発掘して江戸で栽培させる流れも生じています。 以前に少し触れたことがありますが、この手の野菜や薬草などの栽培振興のために各地から有望な種を集めて一種の植物園というか実験農場のような施設を作る試みとしては戦国武将だと織田信長が行った事例が有名で、秀吉や家康などもそういった先例に倣ったと考えられますが、特に家康が自分で薬の調合をするくらい薬草に凝っていたことや江戸城内に野菜畑があって野菜が栽培されていたことなどは比較的知られた話になります。 織田信長より前というか、薬になる薬草の栽培は奈良時代以前から大和朝廷が組織的に行っていたようですし、仏教が伝来して大陸の医術(いわゆる”漢方”)が普及するのに比例して薬草の知識や治療法の水準が官民ともに向上し、深山幽谷に分け入らなくても里や里の近くで栽培できる薬草は栽培し、ものによっては乾燥させてストックするようにもなっていったようですから、戦乱の世が続いたことで絶えたり衰退し、社会が安定化するに連れて姿を変えながら復興していったとも考えられます。 それはそれとして、農学的に見て興味深いのは、江戸の町の土壌が隅田川を境にして東西で大きく異なっていたことで、本来は隅田川より東が”葛西”で、現在の23区の江東区、墨田区、江戸川区、葛西区から千葉県西部の葛西のあたりまでが該当することになりますが、この界隈がかってはしばしば氾濫していた利根川の河口(* 江戸時代初期の土木工事である”利根川東進”で利根川の流れが変えられて霞ヶ浦に主流が流れ込むようになったので念のため)で荒川も氾濫することが珍しく無く、海抜0メートル地帯ということもあったのでしょうが、昭和の頃まで江東大水害などに象徴される水害に悩まされていた地域も多かったりします。 もっとも、河川の氾濫に悩まされるということは、ナイル川の河口周辺などでも知られているように氾濫によって川底の有機物が流れ込んで土壌が肥沃になりますし、なによりも水が利用しやすく、田畑の潅水が容易でありながら土質が砂地の場合は水はけがよくよほどの低湿地帯でもなければ根腐れの心配も少ないため特に根菜系の植物が栽培しやすかったりします。 実際、砂村や千住の葱、葛西菜(後の小松菜)などの栽培が盛んなだけでなく、慈姑(くわい)、里芋、蓮根(れんこん)といった水が豊富に利用できる土地ならではの野菜栽培が盛んで、小名木川などが典型事例だったのか歴史小説などに登場することがありますが、いずれにしても河川や運河を利用して水路で野菜が神田まで運んだり、川岸など水路沿いに営業していた高級料亭などへ青果市場を通さずに直送(産直宅配便の元祖ですな)される量も増加していったようです。 水路網が発展していたというか、直線距離では近い陸路の方が実際には橋の位置や市街地の構造によってはかえって遠回りになるような地域も珍しく無かったのが江戸の町の構造上の一つの特徴で、これは商業と物流の本場であった大阪などにも共通していますが、同じ人数を使っても海運や水運の方が陸上輸送よりも一度に大量の荷物を輸送しやすいこともあって水路を物流網として整備して産業振興に役立てることは当時の武家にとっても常識の内だったようです。 では隅田川以西というか山手(山の手)から武蔵野にかけての地域はどうだったのか?というと、これは典型的な火山灰が体積した台地に象徴される関東ローム層の地域が多く、やはり火山灰土壌の鹿児島のシラス台地とも共通して耕しやすく水はけが良い土壌といえなくもないのですが、保水性に乏しく近くに河川があるか灌漑用の用水路の類が整備されているかで明暗が分かれるところがあります。 産地形成に成功した練馬大根や内藤南瓜などの他には、羽田の梨、目黒の筍(たけのこ)などなど、やや日持ちのする種が多くなっている気がしないでもありませんが、いずれにしても江戸の町が当時の世界で最大規模の百万都市を越えて膨れ上がったこともあって、少し工夫すれば高値で農産物が売れる面白さが江戸の昔からあったようです。 以前、江戸っ子の好んだ初物や初物七十五日の話をしたとき、初鰹、初鮭、初茄子、初茸といったあたりで四天王が江戸時代には形成されていたという話になり、初茄子に関しては当初は箱根の坂を越えて静岡側から江戸へと運び込まれていたものが、時代が下がると(現在の江東区の北砂、南砂界隈の)砂村で茄子の促成栽培が始まったり、高級料亭などが自ら専用の加温室を造ってまで茄子の促成栽培をして従来の2~3ヶ月前に食することができるようになっていったという話になったのですが、そこまでいかなくても、従来よりも10日も早く出荷できれば野菜だと倍の値段でも売れたというのも実話になります。 もちろん、高級料亭などで(当時の感覚だと)超・促成栽培された茄子などは茄子の形をしているというだけで、味や香りを旬の頃のものと比べるだけ野暮だったようですが、それでも誰よりも早く初物を食べたいというニーズが江戸っ子にはあったようで、江戸っ子にとっての初鰹の一つの基準が”将軍様と同じ日に初鰹を食べた”といったあたりになっていたようです。 実際には、伊豆の辺りに魚場を持つ藩の関係者などだと八丁魯の(当時の高速艇)船で江戸の下屋敷などに海路で急送して、将軍様の食卓に初鰹が上る前夜くらいまでに初鰹を江戸の町で食せた人もいたようで、ひそかに”将軍様より先の初鰹”を怪しい話で言うところの戦略的外交物資としてそこかしこへ届けていたといった話もあります(黒い笑)。 促成栽培されて高値で取引される野菜に関しても、一種の贅沢と断じて取り締まりたがる武家がいるかと思えば、戦略的外交物資などを含めて付け届けに用いる武家もいたあたりで、本音と建前は江戸の昔から乖離していたと言える気が私はしていますが、懐具合が厳しいというか寂しい下っ端の武家たちにとっては、高値の初物は町人たちよりも更に無縁の話だったようで、旬になって大量に出回って価格が落ち着いてから江戸の野菜を堪能したようです。 初出:一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第891話 (2013/12/13)